喜連川藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
喜連川藩(きつれがわはん)は、関ヶ原の戦いの後に下野国喜連川に立藩された藩。藩庁は喜連川陣屋(栃木県さくら市喜連川)。藩祖は足利国朝(正室は古河公方・足利氏姫)。祖先を遡れば足利尊氏の子・足利基氏であり、喜連川家は名族足利氏のなかで唯一明治期まで大名格で存続した家である。
目次 |
[編集] 室町・戦国時代
藩主・喜連川氏の元の名字は足利氏である。ただし、足利義満から足利義昭に至る京都の将軍家の足利氏ではなく、足利尊氏の子・足利基氏を祖とする鎌倉公方系統の足利氏である。
基氏の系統は代々鎌倉公方を世襲して関東を支配したが、次第に京都の足利将軍家との対立傾向が目立つようになる。そして基氏の曾孫である足利持氏のとき、遂に永享の乱を起こして第6代将軍・足利義教と対立し、1439年に滅ぼされてしまった。このとき、義教の命により持氏の遺児の大半が殺されたが、末子の足利成氏だけは赤子であるということから許された。
足利成氏は後に鎌倉公方となったものの、1455年に下総国古河を本拠地としたため古河公方を名乗った。しかし第2代古河公方・足利政氏は、息子の足利高基と不和になって対立し、さらに高基の弟である空然が突如還俗して足利義明を名乗り、小弓公方として自立した。
その後、小弓公方・足利義明は、第3代古河公方の兄・高基やその子の第4代古河公方・足利晴氏と徹底して対立し、関東一円に支配権を築こうとしたが、1538年に足利晴氏と手を結んだ北条氏綱の反撃に遭い、戦死してしまった(国府台合戦)。
結局、古河公方は晴氏の息子・足利義氏が継いだが、次第に北条氏の圧迫を受けてその地位は名目的なものだけになり、1582年に義氏が死去すると、男系の後継ぎがいなかったため古河公方は断絶したが、家臣は義氏の娘・足利氏姫を擁立して古河城を守っていた。
しかし、名族である足利氏の断絶を惜しんだ豊臣秀吉は、足利氏姫を小弓公方の故・足利義明の孫・足利国朝に娶わせ、下野喜連川の地に400貫の所領を与えた。これが喜連川氏の興りである。
[編集] 藩史
喜連川頼氏は関ヶ原の戦い(1600年)に出陣しなかったが、戦後に徳川家康に戦勝を祝う使者を派遣したことから1000石の所領を加増された。それでも総石高4500石程度に過ぎず、本来ならば大名ではなく藩と呼ぶことはできない。しかし江戸幕府を開き「源氏長者」となった家康は、かつては将軍家でもあった足利氏の伝統を重んじ、10万石の大名並家格と、大名として最高の尊称である御所号を許した。これにより喜連川藩は江戸期を通じて石高が1万石に満たなかった唯一の藩ということになる。
鎌倉公方以来の家臣団は小弓公方・古河公方対立などで複雑であり、1647年には御家騒動(喜連川騒動)が起きている。しかしこれを切り抜けて喜連川氏の支配が続き、明治時代に至る。維新後は足利姓に復して子爵に遇された。
喜連川藩家臣は100人にも満たず、10万石の格式を保つ出費が負担で、藩財政は厳しかった。唯一の救いは、喜連川が奥州街道沿いの宿場町であったことで、奥州の大名、わけても仙台藩の参勤交代時には喜連川の宿場は潤った。仙台藩が費用節約のために喜連川を通り過ぎたくても、宿場前にはいつも喜連川藩主(御所様)が待っていたという。一度、仙台藩が喜連川を迂回して参勤交代した時には、御所様は義務もないのに江戸城参勤にきて藩主の伊達侯にねっちり嫌味を言ったそうだ。
[編集] 歴代藩主
[編集] 喜連川(足利)家
外様、4500石→5000石
- 足利国朝(喜連川国朝)
- 喜連川頼氏
- 喜連川尊信
- 喜連川昭氏
- 喜連川氏春
- 喜連川茂氏
- 喜連川氏連
- 喜連川恵氏
- 喜連川彭氏
- 喜連川煕氏
- 喜連川宜氏(紀氏を熊本藩から迎えていたが勤まらず、宜氏に交代)
- 喜連川縄氏
- 足利聡氏(足利姓に復姓)