喜連川騒動
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喜連川騒動(きつれがわそうどう)とは、旧喜連川町出版の『喜連川町誌』昭和52年版(1977年)によると、喜連川藩で正保4年(1647年)に起こったとされる藩政の混乱である。
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[編集] 事件の背景
しかし、藩祖足利国朝から、国朝の弟の2代藩主喜連川頼氏、そして3代藩主喜連川尊信の時までの58年にわたり、足利家親族として筆頭家老格である喜連川一色家の当主、一色刑部らによって起こされたとされているが、疑問点や矛盾が多々存在する。
一色氏は、初代将軍足利尊氏より3代前の足利頼氏の実弟足利公深(一色公深)を始祖とする親族であり、室町将軍家(四職)・関東公方家(御奉公衆)、古河公方家(御連判衆)など足利家代々の家臣として要職を担っていた。
喜連川騒動事件の評定に関与した吉良義冬とも足利家を始祖とする同族であり、僧正天海と並び「黒衣の宰相」と言われ、武家諸法度の制定に関与した金地院崇伝と従兄弟一色範勝とも同族である。
この一色刑部は、古河公方家の御奉公衆筆頭・御連判衆筆頭として足利義氏の時よりその子である足利氏姫の時においても、実質的な政務を担当してきた一色氏久(官位は右衛門佐)の子にあたる。
以下に事件の経緯を記すにあたって、「城代家老」という表現をとっているが、本来は「筆頭家老」が正しい。
喜連川藩は、足利家嫡流かつ外様であり、約5000石の小大名だが、徳川家親族扱いであり、10万石扱いの特殊な大名である。
さらに、国勝手であり、無役(諸役御免)で参勤交代の任も免除されている。よって、交代寄合的な特権もあるが江戸屋敷は無く「江戸家老」はいないので、「国家老」とも言わない。
また、藩主が国に常時在しており、喜連川城は、慶長19年(1614年)の原因不明による火災や山城であり使いづらいために取り壊し、残材を用いて山下に館を設けているので城は無く「城代家老」とは言わないのである。
しかし、喜連川町の発刊した公的文献『喜連川町誌』の表現にならい、ここでは「城代家老」の表現をとる。
そして、喜連川足利家の家老は江戸城においての将軍との謁見を許されており、参勤交代の任のない喜連川足利家当主の代行として、徳川将軍家や幕府との折衝に当たっていたので、喜連川足利家当主が代々の徳川将軍と拝謁するのは、正月の挨拶ぐらいであった。
このことは、外様では同家だけで、譜代大名家であっても数少ない特権であり、旧室町将軍家嫡流となる喜連川足利家に対する徳川幕府の配慮である。
[編集] 経緯
この事件は、翌年慶安元年(1648年)春、尊信派の浪人高野修理(直訴準備のため脱藩浪人となった)が5人の百姓と密かに藩を抜け出し、幕府に「城代家老一色刑部派が君主喜連川尊信公を発狂の病と偽り城内に閉じ込め、藩政を我が物にしている」と直訴したことに始まったとされる。
時の大老酒井忠勝・老中の松平信綱・阿部忠秋・阿部重次の4人が特別にその審理に参加し、評定には酒井忠吉・杉浦内蔵充・曽根源左衛門・伊丹順斎の4人が当たった。
幕府の老中達が諸藩の事件評定に参加することは至ってまれである。
そして、事件の幕府評定役である酒井忠吉は、大老酒井忠勝の実弟であり、高家吉良義冬の義父であり、この一色刑部と同じく足利家の親族である。
また『喜連川町誌』では、3代尊信の正室(那須資景の娘)の子万姫(8歳)もこの直訴に加わったとされているが、先に発刊された『喜連川町史』(明治44年編)では、このことは記述されていない。
事件の現地調査に当たった幕府御上使は7月11日に江戸を立ち、7月17日に調査を終えて江戸に帰った。
この時の幕府御上使は、甲斐庄喜右衛門(幕府御弓頭四千石大身旗本)・野々山新兵衛(吉良家家臣)・加々見弥太夫(吉良家家臣)の3名であり、喜連川藩の接待役は黒駒七左衛門・渋江甚左衛門・大草四郎右衛門が当たり、この3名が事件後の一代家老となった。
誰の家老かは明記されていない。
そして、「高野修理等の直訴内容に偽りはなく、喜連川尊信は正常である」という喜連川から帰った幕府御上使の報告に基づき即刻評定が下され、一色刑部・伊賀金右衛門・柴田久右衛門の3名が伊豆大島へ流罪、一色左京(一色刑部の長男)・石塔八郎・伊賀惣蔵・柴田弥右衛門・柴田七郎右衛門の5名は大名旗本預かりとなったとされる。
また、この事件当時、尊信派の次席家老の二階堂又市(二階堂主膳助)15歳(小弓公方系の家臣、故堆津下総守主殿の長子)は事件との係わり合いを恐れて出奔していたが、役責不行き届きの罪により白河城主本多能登守に預けられたとされる。
しかし、この時の白河藩主は榊原忠次が正しく、本多能登守(本多忠義)は1649年に白河城主となった人物であるので、つじつまが合わない。
この喜連川騒動では、誰一人として死罪となった者はいなかったが、結果としてこれら喜連川藩の一色派の家は断絶となっている。
これにより、喜連川尊信は開放され藩政を取り戻し、その約5年後、承応2年(1652年)3代尊信の死去により4代喜連川昭氏(7歳)が榊原忠政を後見人として家督を相続したと旧喜連川町発刊の『喜連川町誌』には記述されている。
しかし、4代昭氏の後見人とされる榊原忠政は、父尊信の母方の叔父であるが1607年にすでに死去した人物であり、この年なら、榊原忠政の嫡子で、母が徳川家康の姪である播磨姫路藩主榊原忠次(松平忠次)となるのだが、後見人としての所領地が遠すぎる。
そこで、喜連川騒動のあった1648年であれば、父尊信(28歳)の隠居による4代昭氏の家督相続となり榊原忠次は、まだ白河藩主であったので後見人としてのつじつまが合ってくる。
また、現在の足利家により整備供養されている、同町の松林山欣浄院専念寺にある喜連川足利家の側室子女の墓にある、4代昭氏の生母(一色刑部の娘であり3代尊信の側室)の死去年は、喜連川騒動事件の5年前の寛永19年(1642年)12月2日であることが墓石に刻まれている。
よって、『喜連川町誌』における4代昭氏の家督相続年(1652年)と年齢(7歳)を考慮すると、4代昭氏の出生年は1645年と推定されるが、しかし生母は1642年に死去しているので4代昭氏だけでなく実弟氏信の出生の歴史さえも物理的に消えてしまうのである。
そこで、4代昭氏の家督相続は喜連川騒動(1648年)が起点であったとするならば、4代昭氏が1~2歳の時に生母が死去したことになり、4代昭氏と実弟氏信の歴史が復活する。
この場合、「喜連川町誌」に記述された尊信派の二階堂又市(主膳助)および浪人高野修理等が主君である3代尊信(28~29歳)を幕府への直訴により失脚させ隠居に追い込んだことになる。
さらに、「喜連川町誌」昭和52年版(1977年)で忠臣として記述されている尊信派の中で喜連川騒動事件の15年後に帰参を許されたのは、当時若干15歳であった二階堂又市(主膳助)だけである。
そして、尊信派とされるその他6名の家臣、武田市郎左衛門・高滝清平・高瀬善左衛門・小関嘉之助・高野修理(直訴の為脱藩した老臣)・梶原平左衛門(直訴の為脱藩した老臣)等の喜連川藩への帰参事実は確認できない。
しかるに、「喜連川町誌」の記述に矛盾が発生する為、この事件の真相は、まだ公式には明らかにされたとはいえない。
[編集] 補足
東京大学史料編纂所に保存されている「史料稿本」には次の綱文(慶安1年12月22日2条)が記されている。
是より先、喜連川藩主喜連川尊信の家臣二階堂主膳助等、高四郎左衛門等と事を相訴ふ、是日、幕府、其罪を断し、尊信に致仕を命し、四郎左衛門等を大嶋に流す
上記綱文の典拠史料としては『人見私記』『万年記』『慶安日記増補』『慶延略記』『寛明日記(寛明事跡録)』『寛政重修諸家譜』『足利家譜(喜連川)』などがあげられている。
この綱文は、東京大学史科編纂所データベースの大日本史科総合DBにて「喜連川」をKEYとし「綱文」を指定すると検索確認することができる。
『喜連川町史』『喜連川町誌』には上記綱文の「高(こうの)四郎左衛門」の名はなく、これら二誌にて直訴を起こした登場人物「高野修理」の脱藩前の姓名の記述もない。
しかし、1590年豊臣秀吉の命により、古河公方家の足利氏女(氏姫)と小弓公方家の足利国朝の婚姻により喜連川足利家が起きた時、足利国朝が上総小弓御所から喜連川の地へ向かった際、従った家臣の中に一色下野守刑部と「高(こうの)修理頭」そして堆津下総守主殿(後の二階堂)の名が確認できる。
よって、この綱文により、幕府は3代喜連川尊信に隠居を命じ、直訴事件の原告、尊信派である高野修理等を大嶋に流したことになる。
しかるに、喜連川騒動事件とは旧喜連川町発刊『喜連川町史』と『喜連川町誌』で記述された尊信派の二階堂又市(主繕助)と高野修理等により偽装された直訴事件であり、3代喜連川尊信と親族一色刑部らを失脚させることにより、幼い4代喜連川昭氏(一色刑部の孫)を担ぎ、藩政乗っ取りを謀ったと見ることもできる。
また、幕府の公式文書である『徳川実紀』の慶安元年7月3日条には
「喜連川尊信が病に伏せったので、老臣が手配し松平忠次の家医である関ト養に治療をさせた」
と記録されている。
この記録は『喜連川町誌』の記述にある、事件調査のため幕府御上使が江戸を発った7月11日の8日前(7月3日)に書かれた幕府による正式な記録であり、前記の綱文の正等性も確認できる。
[編集] 疑問点
この一色家の墓は、現在も喜連川足利家菩提寺である龍光寺内足利家墓所正門前に、筆頭家老の家格を表わすように存在しており、一色刑部と左京親子の名がその墓石に明確に刻まれている。
主君の墓の前に、旧喜連川町発刊の二誌において謀反人とされ、武家諸法度により喜連川の地に戻れるはずもない2人の墓石が実在するのである。
ところが、この墓石には二人の死去年はなく、龍光寺の過去帳にも記載がないので喜連川騒動事件後の喜連川における二人の存在と死去事実が確認できない。
さらに、旧喜連川町発刊の二誌では、喜連川尊信が「発狂」か「否か」の確認が幕府御上使の目的であったと記述されているが、幕府は、幕府の公式文書である「徳川実紀」の慶安元年7月3日条にて喜連川への幕府御上使派遣の8日前に、すでに喜連川尊信の病状と治療を把握しており、幕府による事件評定を待つまでもなく喜連川藩筆頭家老一色刑部の藩政専横容疑は晴れていたのである。
そして、喜連川騒動事件の罪人は、被告「一色刑部等」ではなく、事件を訴え出た原告である尊信派「高四郎左衛門等」・「二階堂主膳助等」であった。
されば、喜連川藩内で断絶の形式をとった、足利家の名門であり南北朝時代に初代九州探題を務めた、一色範氏・一色直氏親子の嫡流といえる古河公方家御連判衆筆頭一色右衛門佐氏久の喜連川一色家、一色刑部・左京親子と家臣達は、その後のどうなったのか?
事件を語る「徳川実紀」においても、その他古文書の事件記述には、皆「一色刑部等」の記述が見受けられない。
喜連川騒動事件の幕府評定は喜連川藩筆頭家老一色刑部・左京親子と極めて親しい親族である、大身旗本(幸手)一色家と高家旗本吉良義冬、そして、吉良家の親族である高家旗本酒井忠吉と兄である幕府の実権を握る大老酒井忠勝など幕府の中枢にあった足利家の親族達による評定でもあった。
よって、喜連川騒動事件における幕府の評定は、歴史の闇を含むものであり、極めて特殊な事件である。
[編集] 参考文献
- 喜連川町誌の「喜連川騒動の顛末」および年表(喜連川町誌編さん委員会編、喜連川町、1977年)
- 喜連川町史の「狂える名君」(明治44年編)
- 『徳川実紀』慶安元年7月3日条
[編集] 外部リンク
- 喜連川騒動における一考察・・喜連川町誌の尊信派陰謀説 喜連川町誌における幕府評定記述さえ怪しいものであった。同誌の記述は「喜連川騒動事件で直訴の原告であり尊信派とされる高野修理と高塩清左衛門の子孫が執筆に関わっており、歪曲されていた。」という観点から書かれた、独自の研究。
- 東京大学史料編纂所データベース SHIPS for インターネット検索ページ — 東京大学史科編纂所
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