高英男
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高 英男(こう ひでお、本名:吉田 英男、1918年10月9日 - )は、樺太(現・サハリン)出身の日本の歌手、俳優。真綿のような美しい声と非常に個性的な姿で知られる。
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[編集] 略歴
大正7年(1918年)10月9日、樺太生まれ。8人兄弟の末っ子。生後すぐ、母方の伯母の嫁ぎ先へ戸籍上だけ養子に。高は実家の姓。大陸名のような名前だが日本人である。実家・養家は共に製紙工場を経営していた。
11歳のとき、勉学のために単身東京へ出される。下谷の従弟のもとに身を寄せる。吉田の家が、浅草でも知られた顔だったため、映画・舞台を自由に見て回れた。
本人曰く「《樺太の自然児》として育った子供が、急に人と人の関係が複雑な芸能界のウラみたいなトコで過ごすようになっちゃったんだから、こりゃあ変な男が出来ないはずがないですよ(笑)」
中学卒業後、武蔵野音楽学校へ進学。同級に木下忠司、大谷冽子(きよこ)がいる。入学後、先輩の紹介で、ディナ・ノタルジャコモ女史にベルカント唱法を習う。
昭和11年(1936年)、初舞台。ソロで3曲歌う。またその頃、コーラスグループ「コーロエーコー」に入団。最年少団員だった。余談だが最年長は東海林太郎。
武蔵野入学後、一年強で日本大学へ転学。当時既に歌で稼いでいたため、学校側がうるさく言ってきていたのと、徴兵を遅らせるため、当時殆ど無い音楽科がある日大へ移ったというのが真相である。
日大では、学生仲間でタンゴのバンドを結成し、ボーカルを担当。日大の後輩には、西村晃、三木のり平、小林桂樹などがいる。
昭和17年(1942年)、日大卒業。即、徴兵。大学出なので幹部候補生ということで少尉になるも、肺結核に罹り、即除隊。療養の傍ら、慰問に参加。
昭和20年(1945年)暮れにNHKの出演テストに合格、翌年よりNHK音楽番組に引っ張りだこ状態で出演。その頃、NHKで三浦環の最期の録音に偶然立ち会う。また、その頃から中原淳一に目をかけられるようになり、舞台からも声がかかるようになった。
中原とは終生まで付き合いがあり、晩年は高が館山の別宅で面倒を見ていた。中原の長男の著作には、二人が同性愛関係にあったことをほのめかすような記述がある。中原の妻である葦原邦子とは、葦原の没後まで親交があり、中原の子供とも親交がある。
昭和26年(1951年)、フランス・パリへ留学。ソルボンヌ大学に学ぶ。
昭和27年(1952年)、帰国。帰朝リサイタルでは、フランスから持ち帰った『愛の讃歌』『ロマンス』『詩人の魂』などを日本人では初めて披露する。また、このときの中原淳一の発案で、日本人のシャンソン歌手第一号となる。昭和28年(1953年)、キングレコードから『枯葉/ロマンス』でレコードデビュー。
またこの年、作曲家の中田喜直からの指名で『雪の降る町を』を吹き込む。その後も『詩人の魂』『セ・シ・ボン』『パダム・パダム』など、シャンソンを次々吹き込む一方、日本劇場等の舞台にも多く出演する。日劇では昭和56年の閉館まで、トップスター扱いで活躍する。
昭和33年(1958年)、再びパリへ。その後昭和48年(1973年)頃まではパリと日本を行き来しながら、精力的に活動する。パリではジョセフ・コスマやダミアなどとも親交を結ぶ。
昭和49年(1974年)からは五年連続で帝劇公演。
昭和52年(1977年)から昭和61年(1986年)まで日本歌手協会理事を務める。
昭和57年(1982年)、国立劇場でポピュラー歌手としては初のワンマンショウ開催。
昭和60年(1985年)、63年(1988年)と心臓疾患で倒れるも回復。またこの頃から平成5年(1993年)頃まで、淡谷のり子とジョイントショーを度々開催。
平成3年(1991年)、日本シャンソン協会設立時には淡谷のり子と共に名誉顧問就任。
平成4年(1992年)、フランス文化勲章シュバリエ章受章。
平成8年(1996年)、歌手生活六十周年記念リサイタル開催。
平成19年(2007年)2月に引退を表明。
[編集] エピソード
- あの独特の化粧は中原淳一の発案で、男性版宝塚を想定したもの。化粧をした日本人初の男性歌手と言われているが本人は否定。「みんな多かれ少なかれやってたよ」との談。ただし、あれだけの舞台化粧は、先には田谷力三(浅草オペラ出身なので)、後では美輪明宏…数えるほどしかいない。
- TBSラジオ「コサキンDEワァオ!」で「男と女」が話題になった。
- 個性を買われ、俳優として石井輝男作品にギャング役などで多数出演。また宇宙人に憑依される凄腕殺人スナイパーを怪演した「吸血鬼ゴケミドロ」は、海外でも公開された。そのようなことから、映画ファンに根強い人気があり、若年映画ファンは高が歌手であることを知らない者も多く、カルト俳優として認知されてる節がある。なお、本人は現実離れしたこの手の役を喜んで演っている。
[編集] 主な出演映画
- 「十一人のギャング」(昭和38年・東映 石井輝男)
- 「大悪党作戦」(昭和41年・松竹 石井輝男)
- 「ギャング対ギャング」(昭和37年・東映 石井輝男)
- 「やくざ刑罰史 私刑」(昭和44年・東映 石井輝男)
- 「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」(昭和44年・東映 石井輝男)
- 「吸血鬼ゴケミドロ」(昭和43年・松竹 佐藤肇)
[編集] 賞歴
- 平成元年:紫綬褒章
- 平成4年:フランス文化勲章シュバリエ章
- 平成7年:勲四等旭日小綬章
[編集] 代表曲/持ち歌
- 雪の降る街を
- 枯葉
- ロマンス
- 幸福を売る男
- 三人のスリの唄
- 一人のスリの唄
- セ・シ・ボン
- 男と女
- パダム・パダム
- 詩人の魂
- 詩人が死んだ時
[編集] 紅白歌合戦出場歴
- 1953年 第3回 ロマンス
- 1954年 第5回 ロマンス
- 1956年 第7回 セ・シ・ボン
- 1957年 第8回 ブン
- 1959年 第10回 ギターとタンバリン
- 1960年 第11回 ロマンス
- 1961年 第12回 カミニート