高野越中
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時代 | 安土桃山時代から江戸時代前期 | |||
生誕 | 不明 | |||
死没 | 不明 | |||
別名 | 左介(幼名)、平岡刑部(改名) | |||
諡号 | 道斎 | |||
官位 | 左馬助 |
高野 越中(たかの えっちゅう)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。関ヶ原後は平岡 刑部(ひらおか ぎょうぶ)と改名した。
はじめ三好康長に仕えたが、三好秀次(豊臣秀次)が康長の養子になると、秀次の家臣となり、その馬廻を務める組頭に任じられた。秀次精鋭部隊といわれる若江八人衆の一人としても数えられる。
文禄4年(1595年)に秀次事件で秀次が自害すると、石田三成の家臣として仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにも石田隊の武将として参加し、奮戦した。戦後は浅野幸長に仕えて平岡刑部と名を改名する。その後、出家して平岡道斎と号したが、その後の行方は不明である。