若江八人衆
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若江八人衆(わかえはちにんしゅう)は豊臣秀次の精鋭家臣団の通称。後に石田三成に仕えたものが多く、その多くが忠誠を誓い、関ヶ原の戦いで奮戦し、殆どが戦死した。
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[編集] 経歴
[編集] 出自
多くの武将は三好康長に仕えていた家臣であるが、豊臣秀吉が人選して甥で後継者候補の豊臣秀次の配下にしたものである。八人衆は秀次をよく補佐し、各地を転戦しつつ武名をあげた。
[編集] 転機
しかし文禄2年(1593年)に秀吉に嫡男・秀頼が生まれると事態は急変し、関白の地位に就いていた秀次の立場は微妙になった。秀次は将来に不安を抱き、京都などで辻斬り(一般人を殺傷する事件、盲目の人間を故なく殺害したとされる)などを起こし「殺生関白」という悪名を広めたされるが、様々な陰謀説が議論されており実情は不明である(豊臣秀次参照)。このころ秀吉は秀次の処分を考え始めたとされ、その直後に秀次の謀反の噂が広まった。秀次の補佐役を任されていた前野長康は秀次のために奔走する。特に石田三成は秀次助命のために奔走し、秀吉に「秀次公は無実であること」(武宗記)を直訴したが、秀吉は元々秀次の処分を考えていた事もあって、高野山へ追放にした上、切腹させてしまった。
[編集] 再起
秀次豊臣家が断絶したため、若江八人衆を含め、多くの武将が連座し浪人となった。石田三成は無実であった秀次家臣団を哀れみ、また浪人増加による社会不安を防ぐため、多くの秀次家臣団を石田家に受け入れた。また若江八人衆も秀次助命のため最後まで奔走した三成に感謝し、慶長5年(1600年)の勃発した関ヶ原戦いでは石田三成軍の本陣を死守する獅子奮迅の戦いをしている(ただし、藤堂玄蕃は従兄弟の藤堂高虎に仕え、安井喜内は浅野幸長に仕えるなど、必ずしも全員が三成に尽くしたわけではない)。
[編集] 関ヶ原の戦いでの戦歴
- 大場土佐(石田隊右翼を守備し奮戦する。戦後は生き残って蜂須賀至鎮に仕えた)
- 大山伯耆(石田隊先鋒として奮戦、討死)
- 高野越中(関ヶ原では石田隊で奮戦して生き残り、戦後は浅野幸長に仕えた)
- 藤堂玄蕃(東軍・藤堂隊先鋒として奮戦、討死)
- 舞兵庫(前野忠康)(石田隊先鋒として奮戦、嫡男とともに討死)
- 牧野成里(石田隊後方を守備、戦後は生き残って徳川氏の旗本となる)
- 森九兵衛(石田隊先鋒として前方柵を防衛、奮戦し討死)
- 安井喜内(秀次没後は浅野幸長に仕え、大坂の役では徳川方として参加)
[編集] 異説
若江「八人衆」ではなく、若江七人衆であるという説もある。また、構成員の中には秀次の近侍として仕えた富田高定(前田利長に仕えて、関ヶ原で北陸にて戦死)を含める場合もあるなど、史料によっては八人ではなく七人ともされ、さらにメンバーも変わることがある。