黒田綱之
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黒田 綱之(くろだ つなゆき、明暦元年(1655年) - 宝永5年7月6日(1708年8月26日))は、筑前国福岡藩の第3代藩主・黒田光之の長男。幼名万千代。初名は長良。
[編集] 生涯
寛文9年(1669年)元服し、従四位下筑前守に叙任。将軍徳川家綱より偏諱を賜って綱之と名乗るが、延宝3年(1675年)光之の帰国後、突如として江戸から福岡に呼び戻されて廃嫡され、剃髪得度させられたうえ蟄居を命じられる。廃嫡・蟄居の理由としては、綱之はその性格粗野かつ奔放であり、しばしば酒宴を催しては家臣と酒を飲んで騒ぐなどして幕閣要路からの評判が大変に悪かったためと言う。しかしながら立花実山をはじめ多くの家臣がこの廃嫡に異を唱えており、真相からは遠いと思われる(多少の乱行はなかったとは言えない)。その後はそのまま寺に入って僧となり、1707年光之の死に際しての遺言によって処分が解かれるまで約三十年の歳月を禅寺で過ごした。
廃嫡・出家後の書として『泰雲』が現存する。なお、福岡市内の屋形原の地名は彼の居館の在所であったことにちなむものである。
[編集] 第二黒田騒動
光之と綱之の対立、綱之の廃嫡、綱政の嫡子という一連の事件は忠之時代の黒田騒動になぞらえて、第二黒田騒動と呼ばれることもある。この事件は単なる父子の対立の結果ではなく父子間の隙に乗じた分家の綱政による本家乗っ取りの陰謀の可能性が大いにありうる。 確たる証拠はないが、この後、綱政の直系が絶えるまで黒田本家の当主・嫡子は一貫して綱政の系統から出ており、継高の正室も綱政の孫であって、最大の受益者が下手をすれば家臣の身分であったところを本家の総領となったばかりかその血筋まで黒田家の本流におさまった綱政であることは誰の目にも明らかである。また綱之の用人で光之の近臣であった立花実山は光之・綱之の死後綱政の手によって一族処刑の憂き目を見ており、本人も情をかける可能性のある名のある武士ではなく、足軽の手によって荒々しい方法で処刑されており、陰謀を探知する可能性のゆえに確実を期して殺されたと考えられなくもないなど、傍証となりうる事実は多い。