黒田綱政
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黒田 綱政(くろだ つなまさ、1659年9月27日(万治2年8月11日) - 1711年8月2日(正徳元年6月18日))は、筑前福岡藩の第4代藩主。父は第3代藩主・黒田光之(綱政は四男)。母は小笠原忠真の娘・宝光院。正室は立花忠茂の娘(立花鑑虎の養女)・心空院。側室は下谷氏、吉田氏、藤井氏など多数。子に吉之、宣政。官位は従四位下、肥前守、右衛門佐。
万治2年(1659年)8月11日、江戸麻生の藩邸にて生まれた。寛文3年(1663年)7月、支藩の東蓮寺藩主の黒田之勝に嗣子が無かったため、その後を継いで長寛と名乗った。ところが1677年2月に兄の黒田綱之が廃嫡されたため、嫡子に選ばれ、綱政と改名した。元禄元年(1688年)、父の隠居により家督を継ぐ。このとき、弟の黒田長清に5万石を分与した(直方藩)。隅田重時を家老として登用し、父時代の側近をすべて排除して藩主権力の強化に努めた。しかし佐賀藩との間で背振山国境論争が起こる。また、財政改革のために藩札を発行したが、逆に米価が昂騰して失敗に終わった。正徳元年(1711年)6月18日、福岡にて死去。享年53。死後、家督は次男の黒田宣政が継いだ。
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