10cc
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10cc(テンシーシー)は1970年代のイギリスのバンドである。マンチェスター出身の4人組。楽曲は捻りの聞いた一癖も二癖もある楽曲が多い。1977年に初来日、1983年の解散を挟んで1993、1995年にも来日公演を行っている。現在、バンドとしての活動は休止しているが、2005年7月にはオリジナルメンバーの一人、グレアム・グールドマンがバンドを率いて来日公演を行った。
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[編集] メンバー
- 1972年-1976年・オリジナルメンバー
- グレアム・グールドマン(Graham Gouldman):ベース、ギター、ボーカル
- エリック・スチュワート(Eric Stewart):ボーカル、ギター、キーボード
- ロル・クリーム(ロル・クレーム)(Lol Creme):ボーカル、ギター、キーボード、ギズモ
- ケヴィン・ゴドリー(ケヴィン・ゴドレイ)(Kevin Godley):ボーカル、ドラム
- 1976年
- ケヴィン・ゴドリーとロル・クリームが脱退しゴドリー&クリーム(ゴドレイ&クレーム)を結成。以後、10ccはエリック・スチュワートとグレアム・グールドマンを中心に活動を続ける。
- 1978年
- サポートメンバーだったポール・バージェス(ドラム)、リック・フェン(ギター)、スチュアート・トッシュ(ドラム)、ダンカン・マッケイ(キーボード)を正式メンバーとし6人組のバンドとなる。
- 1981年
- ダンカン・マッケイの脱退を機にエリック・スチュワートとグレアム・グールドマンのデュオ体制に戻る。
- 1983年
- 正式に解散。
- 1992年**期間限定の再結成を果たし「ミーンホワイル」をリリース。これにはゴドレイ&クレームもゲスト参加した。翌1993年に来日コンサートを行なう。
- 1995年
[編集] 経歴・概要
10ccのデビューは1972年8月。しかしオリジナルメンバー4人はその約10年前から音楽業界で下積み活動を行っていた。
共にイギリス・マンチェスター出身の4人は当時流行し始めたビートバンド・ブームの中、それぞれが演奏活動を始める。エリック・スチュワートはいくつかのバンドを経て、1963年6月にウェイン・フォンタナ&ザ・マインドベンダーズのギタリストとしてレコード・デビューを果たす。1964年6月、グレアム・グールドマンは自分のバンドThe Whirlwindsのレコード・デビューに際して、B面曲としてライバル・バンドThe Sabresにいた友人のロル・クレームの曲を採用するも、ヒットせずにバンドは解散してしまう。グレアムはThe Sabresからドラマーのケヴィン・ゴドレイを引き抜いて新バンドThe Mockingbirdsを結成、1965年2月に改めてレコード・デビューを果たす。デビュー曲としてグレアムは「フォー・ユア・ラブ」を作曲するが、レコード会社側から拒否され、代わりに"That's How (It's Gonna Stay)"をレコーディングする。「フォー・ユア・ラブ」はその後ヤードバーズがレコード化、全英3位の大ヒットとなる。一方The Mockingbirdsのレコードは不発に終わる。バンドはその後レコード会社を移籍しつつ4枚のシングルを発表するもヒットを生み出せずに解散。グレアムはソングライターとして次々にヒット曲を生み出していく。また自身のアーティスト活動も続け、ピーター・カワップやジョン・ポール・ジョーンズたちとのバンド活動を経て、1968年7月には自作曲のセルフカバーアルバム「ザ・グレアム・グールドマン・シング」を発表している。The Mockingbirds解散後ケヴィンは再びロルとコンビを結成、組み立て絵本などのデザイナーで生計を立てる一方、グレアムのマネージメントで1967年Yellow Bellow Room Boom名義でシングル"Seeing Things Green"を発表している。ウェイン・フォンタナ&ザ・マインドベンダーズは1965年1月の4thシングル「ゲーム・オブ・ラブ」が全英2位/全米1位の大ヒットを記録するも、その後低迷しリーダーでヴォーカルのウェインがソロ・アーティストとして独立してしまう。残ったバンドメンバーはエリックをヴォーカルに据えザ・マインドベンダーズとして再出発を図る。1965年12月に発売された1stシングル「恋はごきげん」は全英2位/全米2位の大ヒット、その後"Ashes To Ashes"もヒットするなど順調な活動が続く。1967年にはシドニー・ポワチエ主演の名作映画『いつも心に太陽を』に曲を提供、バンド自身もゲスト出演している。1967年11月のシングル"Schoolgirl"はグレアムの作曲・プロデュース。このレコーディングでエリックと意気投合したグレアムは、後に脱退したベースの代わりにバンドに正式参加、シングル"Uncle Joe The Ice Cream Man"ではリードヴォーカルをとっている。バンドはこのシングルを最後に解散、エリックはグレアムを誘い、レコーディング・スタジオ"ストロベリースタジオ"の共同出資者となる。グレアムはロルとケヴィンをスタジオミュージシャンとして誘い、やがてエリック、グレアム、ロル、ケヴィンの4人でバンド活動を開始する。
1969年9月ヤードバーズのマネージャー、ジョルジオ・ゴメルスキーの設立したレーベル "Marmalade"より、Frabjoy & Runcible Spoon名義でシングル"I'm Beside Myself"をリリース。ケヴィンの「ヘブンリー・ヴォイス」に惚れ込んだゴメルスキーがケヴィンとロルを「第二の"サイモンとガーファンクル"」とすることを目指したと言われている。アルバム制作も着手されたがレーベルの経営が悪化したために頓挫。同じ頃グレアムに対して、米国バブルガム・ミュージックの総本山カセネッツ=カッツ・プロダクションから作曲の依頼が届く。渡米したグレアムは作曲契約と同時に彼らの傘下アーティスト用楽曲レコーディングのため3ヶ月間ストロベリー・スタジオを貸し出す契約を結ぶ事に成功する。その留守中新たに届いた4トラック・レコーダーの試験録音用に3人が冗談で録音した「ネアンデルタール・マン」がたまたまその場にいた旧知のレコード会社社員の耳に止まり、1970年6月ホットレッグス名義でリリースされる。このシングルは全世界で200万枚以上を売り上げるヒットを記録するが、その急激なヒットに怖じ気づいた3人は避暑地に逃亡してしまい、結果スターへの道を自ら棒に振ってしまう。アルバム「シンクス:スクール・スティングス」が発売されたのは9ヶ月後の1971年3月。頓挫した"Frabjoy & Runcible Spoonアルバム"の楽曲を中心に構成されたというそのアルバムは、英米盤でそれぞれ別ミックスを収録するなど意欲的な作品だったが、既に"ネアンデルタール・マン"ブームは終了していて不発に終わる。その後も4人はDoctor Father、Fighter Squadron、Amazon Trust、The New Wave Bandなどとバンド名を変えながらシングルを次々とリリースし次のヒットを狙っていく。その前後スタジオミュージシャンとして、ハーマンズ・ハーミッツ、オハイオ・エキスプレス、ラマセスなど数多くのアーティストのレコーディングを行った。特にニール・セダカとのレコーディングはアルバム2枚(「ソリテアー」「ピース・アンド・ラブ」)に及び、後のセダカ復活の礎として一部で高評価を得ている。
1972年、4人はスタジオミュージシャンとしての活動で自分たちの才能と時間が浪費されすぎていると考え、真剣に自分たちのバンドに力を入れることを誓い合う。エリックの10年来の友人だった人気歌手ジョナサン・キングが自分のレコード会社UKレコードを設立したことを聞いた4人は新たに作曲した「ドナ」を持参して契約にこぎ着ける。キングは夢で見た"世界最高のバンド名"の"10cc"を彼らに与え、1972年8月4日にシングル「ドナ」を発売する。これが全英2位の大ヒットとなり以降バンドの活動は10cc名義が中心となっていく(74年以降は10ccに固定)。1973年3月に発売された3枚目のシングル「ラバー・ブリッツ」で全英1位を獲得、同年7月に発売された1stアルバム「10cc」も全英36位のヒットとなった。1stアルバムはロルのファルセット・ヴォイス中心のコミカルな楽曲が多く、ある種コミックバンド的な評価を得るが、同時にその演奏技術の高さも評価されていた。1974年5月には2ndアルバム「シート・ミュージック」をリリース。全英9位のほか全米でも81位にランクインする。エリックがリードヴォーカルの先行シングル「ウォール・ストリート・シャッフル」を始め、コミカルさが後退、代わりに良質なポップミュージックが全面に現れたアルバムとなった。バンドはアルバムのヒットを受けて初の全米ツアーを行う。
1975年、米国での更なる成功を狙うためにフォノグラム(マーキュリー)レコードに移籍する。同年3月に3rdアルバム「オリジナル・サウンドトラック」をリリース。全英4位全米15位の大ヒットを記録する。シングルカットされた「アイム・ノット・イン・ラブ」は全英1位全米2位を記録、現在でもバンドの代表曲として知られている。同年冬に2ヶ月間行われた全米ツアーも成功を収め、バンドとして絶頂期を迎える。1976年1月に4thアルバム「びっくり電話:ハウ・デア・ユー」をリリース。このアルバムも全英5位全米47位を記録するが、各楽曲においてメンバー間の音楽性の違いが明確に表れていた。当時のレコーディングでは、誰が作曲してもメンバー間の賛意がない限りレコーディングに入らないというルールを課していたこともあって、お互いの音楽性の違いが人間関係をも消耗させる原因になっていた。またバンドとしてツアー活動も重要視するエリック・グレアム組とスタジオ制作に集中したいケヴィン・ロル組で意見の対立が激化、レコード制作は4人で行うが、ツアーはエリック・グレアムだけで行うという暫定合意がなされる。ケヴィン・ロル組は、自分たちがマンチェスター工科大学の協力で開発したギター・アタッチメント"ギズモ"のデモンストレーション・アルバムに取りかかる。同時に10ccの5thアルバムのためのレコーディングがスタートするが、エリック・グレアム組が用意したラブ・ソング「恋人たちのこと」を拒絶したケヴィンがロルを連れて脱退してしまう。同年10月末に公表された二人の脱退理由は"ギズモの開発とデモアルバムのレコーディングのため"となっていた。ケヴィンとロルはその後"ゴドレイ&クレーム"としてレコードをリリースする一方、1980年からはプロモビデオの監督業をスタート、高い評価を受ける。
残されたエリックとグレアムはレコーディングを続け、ドラムに以前からツアーでのサポート・ドラマーだったポール・バージェスをゲストに迎え、5thアルバム「愛ゆえに」を完成させる。1977年4月にリリースされた同アルバムは全英3位全米31位を記録、先行シングルの「愛ゆえに」も全英6位全米5位の大ヒットとなり、分裂で生じた悪評を完全に払拭する。その勢いを得て二人はツアーを開始、ポール・バージェスに加え、リック・フェン(g)、スチュアート・トッシュ(ds)、トニー・オマーリー(key)の4人をサポートメンバーとして加入させている。英国・豪州・日本を回った後、同年12月には英国のライブを収録した6thアルバム「イン・コンサート」をリリース、全英14位を記録する。ツアーの後トニー・オマーリーに代わりダンカン・マッケイを加えたサポートメンバー4人を正式にバンドメンバーとすることを決め、10ccは6人組のバンドとなる。1978年9月7thアルバム「ブラッディ・ツーリスト」をリリース、全英3位全米69位を記録する。続けて始まった英国・北米ツアーも成功を収め、彼らの人気は不動となるように思われた。
1979年1月に起きたエリックの交通事故によって、二度目の来日公演を含むワールドツアーはキャンセルされる。エリック復帰までの間、グレアムはメンバーたちと一緒に映画『サンバーン』の主題歌やアニメ"Animalympics"のサントラをレコーディングして過ごす。半年後復帰したエリックは手始めにフランス映画『ガールズ 恋の初体験』のサウンドトラックのレコーディングを行う。1980年3月8thアルバム「ルック!ヒア!!」をリリース。エリック・グレアム組以外のメンバーが作曲した曲も組み込んだ意欲作だったが全英35位全米180位に留まった。本アルバムの米国盤はジャケットデザインが異なっている。同年4月バンドは欧州ツアーを行う。
1981年ダンカン・マッケイの脱退を機に、エリックとグレアムは10ccを再びデュオ形式に戻してレコーディングに入る。元のメンバーの他にサッド・カフェのヴィク・エマースンやレニー・クルックス、マーク・ジョーダン、サイモン・フィリップスらがレコーディングに参加した。完成した9thアルバム「ミステリー・ホテル」はAOR路線に磨きがかかった良作だったが、時代的なニーズとは合わずにチャート的には全く振るわずに終わった。リリースは同年11月。1982年2月結成10周年記念ツアーを英国で行う。同年3月にシングル「ザ・パワー・オブ・ラブ」をリリース。この曲にはプロデュース・作曲に米国のソングライター・アンドリュー・ゴールドが参加している。前年米国ではリリースされなかった「ミステリー・ホテル」は、この「ザ・パワー・オブ・ラブ」を始めアンドリュー・ゴールドが参加した3曲と別の1曲が差し替えられてようやく米国でリリースされた。同年8月にはエリックの初のソロアルバム"Frooty Rooties"がリリースされる。1983年春の全英ツアーを経て、9月に10thアルバム「都市探検」をリリース。リック・フェンやスチュアート・トッシュのほかスティーブ・ガット(ds)やメル・コリンズ(sax)らをサポートメンバーに迎えている。今作もAOR路線を踏襲したためか全英70位と不調に終わる、シングルカットされた「君に夢中」のプロモビデオの監督にゴドレイ&クレームを起用したことが話題となった。リリース直後に始まった全英ツアーも不調に終わったことから、二人は10年に及ぶバンド活動を停止する。
10cc解散後、エリックは旧友のポール・マッカートニーのレコーディングに参加。1986年の「プレス・トゥ・プレイ」ではアルバムの半数以上の曲で共同作曲も手がけている。グレアムはアンドリュー・ゴールドと1984年World In Actionという名のユニットを結成。すぐにCommon Knowledgeと改名し計2枚のシングルをリリースする。その後1985年にレコード会社を移籍した際にワックスと改名、翌1986年6月には1stアルバム「マグネチック・ヘブン」をリリースする。同年3月にリリースされた先行シングル「ライト・ビトウィーン・ジ・アイズ」は全英60位全米43位のヒットを記録。ワックスは続けて1987年9月に2ndアルバム「アメリカン・イングリッシュ」を、1989年9月には3rdアルバム「100,000フレッシュ・ノーツ」をリリースしている。その後も断続的に活動を続け1990年代後半にも新曲を含んだベスト盤「ザ・ワックス・ファイル」(1997年)や"Common Knowledge.com"(1998年)などをリリースしている。
1987年8月にリリースされた10ccとゴドレイ&クレームの合同ベスト盤「チェンジング・フェイセズ(ベスト・オブ・10cc/ゴドレイ&クレーム)」がプラチナ・アルバムとなったことから、レコード会社のポリドールがオリジナル・メンバーに対して再結成を打診、結果エリックとグレアムによる10cc再結成アルバム「ミーンホワイル」が1992年5月にリリースされる。このアルバムにはケヴィンとロルもゲスト参加している。収録曲の「スターズ・ディドゥント・ショウ」ではケヴィンがリードヴォーカルを担当した。二人のゲスト参加は、アルバム制作契約が残っているにもかかわらず1988年にコンビを解消した事で発生したペナルティ回避のためと言われている。ファン待望のリリースではあったがセールスは日本以外では芳しくなかった。1993年に15年ぶりの日本ツアーの後全英ツアーを行う。日本ツアーの模様は1993年7月にライブアルバム「アライヴ」としてリリースされた。
1995年3月エイベックス(カッティング・エッジ)から再結成第二弾アルバム「ミラー・ミラー」をリリース。新録された「アイム・ノット・イン・ラブ」のほかは、エリックとグレアムがそれぞれ別々にレコーディングした楽曲を交互に配列した構成となっている。(ただし日本盤と英国盤と米国盤はそれぞれ楽曲収録数が異なる。)アルバムリリースに合わせて英国、日本、オランダでライブを行うが、それを最後に再びバンド活動を停止する。
2000年10月にグレアムの2ndソロアルバム"And Another Thing"が、2003年4月にはエリックの2ndソロアルバム"Do Not Bend"がそれそれリリースされ、ファンを喜ばした。2004年には英国アイヴァー・ノヴェロ賞を受賞。公の場で久々にエリック、ロル、グレアムが一緒に姿を見せた。グレアムはその後ポール・バージェスやリック・フェンらと共に"Graham Gouldman's 10cc"として世界各国でツアーを行っている。また2006年7月には30年ぶりにケヴィンと共作した4曲をネット上でダウンロード販売している。エリックはフランスの自宅で3rdアルバムを目下制作中だ。
[編集] 名前の由来
- よく話題になるのはこの「10cc」というバンド名の由来である。良く言われるのは男性が一回に出す精液の量×4人分が、だいたい「10cc」という事でつけられたと言われているが実際は違う。それは「10cc」の所属レコード会社の社長、ジョナサン・キングが、こんな夢を見た。ハマースミス・オデオン(またはウェンブリー・スタジアム)のカンバンに「世界で最も偉大なバンド、10cc」と書いてあり、そこで彼は目を覚ました。「これは神のお告げかもしれない。」と思った彼が縁起を担ぎ「10cc」と名付けたのが真実である。
[編集] 有名な楽曲
- アイム・ノット・イン・ラヴ:70年代不朽の名曲として彼らを代表する曲。日本のCMでもたびたび使用される。1991年にウィル・トゥ・パワーがカヴァーし、こちらもヒットしている。もともとは「架空の映画のサウンドトラック」というコンセプトでリリースされた名盤「オリジナル・サウンドトラック」中の1曲にしか過ぎなかった。しかし、アメリカのFMのDJ達は、こぞって、この曲を流した。これに気を良くしたレコード会社はすぐにシングル・カットをメンバーに要求したが「ライヴであの楽曲のクオリティーを表現出来ない!」として最後までメンバーはシングルカットに難色を示していた。この曲はビルボード・週間シングルチャートで第2位まで上り詰めたが、そのまま3週連続第2位に泣かされた(1975年7月26日付~8月9日付)。その時、1位を阻んだのは、ヴァン・マッコイ&ソウル・シティ・シンフォニーの「ザ・ハッスル」、次いでイーグルスの「呪われた夜」、最後に、当時4年ぶりの全米No.1獲得となった、ビー・ジーズの「ジャイヴ・トーキン」と全く異なる3曲によって全米No.1を阻まれた。なお全英No.1にはなっている。バックに流れる幻想的なコーラスは4人の声をテープ編集により256人分に増幅して作成された。またこの曲にはギズモは使用されていない。
- 電話を切らないで:4人時代にリリースされた最後のアルバム「びっくり電話」の中の1曲。曲の最後は電話を切られたように突然終わる。この曲はドラムのゴドリーが甘い声でボーカルを務める。
- 愛ゆえに:ゴドリーとクリームが抜けた後、「これじゃ10ccじゃなくて5ccだ。」などと揶揄されたが残された2人はメンバー補充でグループを建て直した。そして2人の共作による「愛ゆえに」を放った。この当時、多重録音を駆使した事がクイーンに影響を与えている。ちなみに、この曲は1977年に全米第5位を記録している。
[編集] ディスコグラフィー
[編集] オリジナル・アルバム
- 10cc-10cc (1973)
- シート・ミュージック-Sheet Music (1974)
- オリジナル・サウンドトラック-The Original Soundtrack (1975)
- びっくり電話-How Dare You! (1976)
- 愛ゆえに-Deceptive Bends (1977)
- ブラディ・ツーリスト-Bloody Tourists (1978)
- ルック・ヒア-Look Hear? (1980)
- ミステリー・ホテル-Ten Out of 10 (1981)
- 都市探検-Windows in the Jungle (1983)
- ミーンホワイル-...Meanwhile (1992)
- ミラー・ミラー-Mirror Mirror (1995)