LTCM
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Long-Term Capital Management(ロングタームキャピタルマネジメント、通称:LTCM)は、かつてアメリカ合衆国コネチカット州に本部をおいて運用されていたヘッジファンドである。日本語に訳すと、「長期間の資産運用」となる。
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[編集] 創始と当初4年間の成功
LTCMは債券トレーダーのジョン・メリウェザーの発案により設立され、1994年2月24日に運用を開始したが、このファンドはFRB(アメリカの中央銀行)元副議長デビッド・マリンズや、ブラック-ショールズ方程式を完成させ、共に1997年にノーベル経済学賞を受けた経済学者であるマイロン・ショールズとロバート・マートンといった著名人が取締役会に加わっていたことから「ドリーム・チームの運用」と呼ばれ、当初より12億5000万USドルを世界各国における証券会社・銀行などの機関投資家、富裕層から集める事に成功した。この募集金額は、ファンド創始時のものとしては史上最高額となるものであった。
[編集] 中立ファンド
その運用方針は、流動性の高い債券がリスクに応じた価格差で取引されていない事に着目し、実力と比較して割安と判断される債券を大量に購入し、反対に割高と判断される債券を空売りするもの(レラティブ・バリュー取引)であった。コンピュータを用いて多数の銘柄について自動的にリスク算出、判断を行って発注するシステムを構築した。また、個々の取引では利益が少ないことから、発注量を増やし、レバレッジを効かせて利益の拡大を図った。その後、1995年にはM&A、1996年には金利スワップ取引、1997年には株式やモーゲージ取引のように、低流動性かつ不確実性が高い市場取引にも参入していった。
特定の市場や国などに攻撃を仕掛けるマクロファンドと異なり、市場に対して中立的な方針をとるこのファンドの運用は1998年初めまで成功し、当初の投下資金は4年間で4倍に膨れ上がった。平均の年間利回りは40%を突破した。結果としてLTCMへの信用が高まり、資本金65億USドル程度の会社が、UBSなど各国の金融機関の資金1000億USドルを運用するという状態にまでなった。
[編集] 破綻
しかし1997年に発生したアジア通貨危機、それに連動する形で1998年に発生したロシア財政危機が状況を一変させた。アジア通貨危機を見た投資家が「質への逃避」をおこしつつあったところへロシアが債務不履行を宣言した事により、新興国の債券・株式は危険であるという認識が急速に広がり、投資資金を引き揚げて先進国へ移す様になったのである。LTCMの運用方針では、この様な動揺はやがて収束し、いずれ新興国の債権・株式の買い戻しが起こることを前提としており、それに応じてポジションをとった。だが、これらの経済危機によって生まれた投資家のリスクに対する不安心理は収まらず、むしろますます新興国・準先進国からの資金引き上げを加速させていった。
結果としてLTCMの運用は破綻し、資産総額は1994年の運用開始時点の額を下回り、同年9月18日ごろには誰の目にも崩壊寸前である事が明らかとなった。
[編集] 救済
だが、前述の通りLTCMは欧米の金融機関から投資された1000億USドルもの資金を運用しており、さらには1兆USドルに上る取引契約を世界の金融機関と締結していた。そのためLTCMが崩壊すると、ただでも前述した経済危機により不安定となっていた金融市場に多大な影響を与え、恐慌への突入も危惧された。また、その成功を見た多くの金融機関がLTCMの運用手法を模倣しており、それらも多大な損失を生み出していた状況であったため、なおさらのことであった。
そのため、一私企業の救済は自由経済の原則にそぐわないとして反対する声を押し切り、ニューヨーク連邦準備銀行の指示によりLTCMに資金を提供していた15銀行が、LTCMに最低限の資金を融通し、当面の取引を執行させて緩やかに解体を行わせていく事にした。
またアメリカにおいてはアラン・グリーンスパンの指示により、短期金利のFFレートを1998年9月からの3ヶ月間で3回引き下げるという急速な対応をとり、LTCM破綻危機により拡大した金融不安の沈静化を図った。
これらの行動を受け、日本でも同様に1999年初めに金融恐慌を発生させないため(日本長期信用銀行・日本債券信用銀行などの破綻の影響もあったが)、銀行への公的資金注入と、ゼロ金利政策の実施がなされている。
[編集] その後
LTCMに対する36億USドルの緊急出資のうち、9割が1999年中に返還された。また、発案者のジョン・メリウェザーは現在「JWMパートナーズ」と呼ばれる新しいヘッジファンドの運用を行っている。
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