M-TEC
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株式会社M-TEC(エムテック)は、ホンダ車用のアフターパーツ製造販売、及びレース用エンジンの開発製造事業等を手がける日本の企業。2003年創業。株式会社無限の法人税法違反(脱税)容疑事件をきっかけに、すべての無限事業を譲渡され本格事業を開始した。
株式会社無限の全業務は2004年にM-TECに移ったが、会社組織としての株式会社無限は存続し、ブランド名『無限』はいまだ株式会社無限が保持している。M-TECは株式会社無限と『無限』ブランドの独占使用契約を締結した上で『無限』ブランドによる事業を展開する一方、現在存続している株式会社無限は、M-TECからのライセンス収益がその収入源の一つとなっているという関係である。
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[編集] 株式会社無限の歴史
- 1973年 本田宗一郎の実の息子の本田博俊がのちホンダ社長となる川本信彦らと創設。ホンダ2輪・4輪車のチューニングパーツの開発と販売を行っていた。'70〜'80年代には2輪モトクロスなどでも高い実績を残している。
- 1992年 前年までホンダが開発していたF1用V10エンジンの開発を引き継ぐ形でF1参戦を開始。
- 1996年 F1モナコグランプリにおいて、無限エンジン(MF301H)がオリビエ・パニスのドライブするリジェにより初勝利を挙げる。
- 2000年 ホンダのF1復帰に伴いF1参戦終了。
- 2003年7月 法人税法違反(脱税)容疑で本田博俊社長と広川則男元監査役が逮捕された。
- 2004年4月1日 株式会社 M-TEC へ『無限』ブランドを除く無限の全業務を譲渡。同時に、M-TECへの『無限』ブランド独占使用契約を締結。株式会社無限はライセンス保持会社となる。
- 2006年5月23日 さいたま地裁にて広川則男に懲役3年の実刑判決。判決では「決算業務などを統括していた広川が主犯」と認めており、本田との共謀については成立を否定した。
- 2006年5月25日 さいたま地裁にて本田博俊に無罪判決。検察は懲役4年を求刑していたが、判決では「本田に不正経理の故意があったとは認められない」と本田側の主張がほぼ全面的に認められた。一方、株式会社無限には、罰金2億4000万円(求刑は罰金3億円)が命じられた。
[編集] 株式会社M-TECの歴史
- 2003年10月1日 株式会社 M-TEC 設立。代表は永長眞(ながおさ しん)。
- 2004年4月1日 株式会社 M-TEC は『無限』ブランド以外の無限の全業務を引き継ぐ。同時に、M-TECでの『無限』ブランド独占使用契約を締結。M-TECが無限ブランドを使用するようになる。
[編集] 主な業務
(2003年以前は株式会社無限、2004年以降は株式会社M-TECによるもの)
- レース用エンジンの開発・製造及び供給
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- MF308(フォーミュラ3000/フォーミュラ・ニッポン用)(2005年まで)
- HF386E(フォーミュラ・ニッポン用)(2006年から)
- MF204(フォーミュラ3用)
- MF408S/MF458S(スポーツカー用)
- ホンダ車用アフターパーツの開発及び製造販売およびレース部品の供給とレースサポート
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- 現在は二輪・四輪共に行なっている。
- ホンダ車によるワンメークレース於いて、エントラントへのテクニカル及びホスピタリティのサーキットサービス
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- H.O.A.(ホンダ ワンメイク レースアソシエーション)メンバー
[編集] レース活動
[編集] 株式会社無限時代
1985年から93年まで全日本ツーリングカー選手権(JTC)にシビックで参戦。
1994年から95年まで全日本ツーリングカー選手権(JTCC)にシビックフェリオ、1996年から97年までアコードで参戦。
1998年から2003年まで全日本GT選手権(SUPER GT)のGT500クラスにNSXで参戦していた。
[編集] 株式会社M-TEC
2004年は、03年のGT500 NSXに若干の変更(タイヤをブリヂストン→ダンロップに変更する等)を加え、GT300クラスに参戦。開幕戦から常に上位争いに加わり、シリーズチャンピオンを獲得した(しかし、優勝は最終戦だけであった)。ちなみにシーズン当初は「ちょんまげ」(ルーフの上に設置されるエアインテークの通称。メーカーオプション)を封印していたが、最終戦以降使用していた。
2005年も常に上位にいたが、第4戦(スポーツランドSUGO)における対応(車両火災によるレース中断時に、オフィシャルが誤って車両を破損)を巡って、監督がオフィシャルに殴るというトラブルを起こし、チームは同レースでのポイントを剥奪され1歩後退した。それでも最後にはシーズンランキング2位に食い込んでいる。またこの年よりチーム国光のGT500 NSXのマシン メンテナンスを請け負うようになった。
2006年はSUPER GTへの参戦は無くなったものの、同年より始まった全日本スポーツカー耐久選手権(JLMC)へ第2戦より参戦した。マシンはクラージュC70で、エンジンはMF458S(V8 4,500cc NA)を使用。タイヤはミシュランを装着する。
エンジン・コンストラクターとしては、SUPER GT(GT500のNSX及びGT300のVemac・RD408R),フォーミュラ・ニッポンやフォーミュラ3等でエンジン供給を行っている。
[編集] F1への挑戦
1992年から1993年まで、ホンダが前年にティレルに供給したV10エンジン「RA101E」の開発を無限が引継ぎ、「MF351H」と改称したエンジンをフットワークに供給することを発表した。エンジンのブランド名は「無限ホンダ("MUGEN-HONDA")」。ホンダは1992年限りでF1から撤退したが、その後も完全ではないものの、ホンダからの技術供与やエンジニアの出向も行われた。
1994年からはチーム・ロータスに供給を行い、シーズン後半には、新設計V10エンジンの「MF351HB」を投入し同年のイタリアグランプリで予選4位を得る速さを発揮するが、それも断末魔の叫びとなり、結局この年1度も入賞することなくチームはシーズン終盤で撤退してしまう。
排気量が3000ccに制限された1995年シーズンにはリジェ(1997年からはプロスト・グランプリ)に新エンジン「MF301H」を供給。1996年のモナコグランプリでは、荒れたウェットレースをオリビエ・パニスが制し、無限ホンダに初勝利をもたらした。しかし、リジェを買収したプロストはオールフレンチチームを目指すため、1997年当時プジョーエンジンを使用していたジョーダン・グランプリと交渉の末、エンジンをトレードする形となった。
1998年からジョーダンにエンジンを供給することになり、同年のベルギーグランプリで、元チャンピオンのデイモン・ヒルが勝利し最終戦日本グランプリでチームはコンストラクターズタイトル4位に入った。翌年にはハインツ=ハラルト・フレンツェンが2勝を挙げ、終盤までドライバーズチャンピオン争いに絡む活躍を見せここでもコンストラクターズタイトル3位に入った。(一方でプジョーエンジンを手に入れたプロストは下降線をたどっていった)
ジョーダンへの供給は2000年まで続いたが、その年よりホンダがエンジンコンストラクターとして復帰したこと、チーム代表のエディ・ジョーダンが、B・A・Rと同等のワークスエンジンをホンダに要求、2001年からの供給が決まったことで、無限のF1活動はこの年に終了した。
なお、FIA公式のリリースなどでは、エンジンメーカー名を"MUGEN-HONDA"ではなく、"HONDA"と記載していた。[要出典]
[編集] 関連項目
- 本田技研工業(創業者は親子であるが株式会社無限、株式会社M-TECともに資本関係はなく、契約上のパートナーという形を取っている)
- イルモア(2006年よりフォーミュラ・ニッポン用エンジンを共同開発している)
[編集] 外部リンク
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