イタリアグランプリ
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イタリアグランプリ(イタリアGP, 英:Italian Grand Prix 伊:Gran Premio d'Italia)は、イタリアで1950年から2006年現在まで連続して行われているF1のレースのひとつである。同一名称のグランプリが1年も欠かさず開催されているのは、このイタリアGPとイギリスGPのみである。1980年に、現在はサンマリノGPが行われているイモラサーキットで行われた以外は、全てモンツァサーキットで行われている。
イタリア国内で行われた、イタリアGP以外の名称をもつF1レースも本項目で記述する。
また、次のシーズンに関する重大発表がなされることの多いレースでもある。
目次 |
[編集] 概要
- モンツァサーキットは、4本のロングストレートを3つのシケインと2箇所の複合コーナーで結んだレイアウトであることから、F1グランプリ開催サーキット中、最も平均速度の高いサーキットで有名である。
- 1955年・1956年・1960年・1961年はバンクも使用した10kmレイアウトで行われるなど、かつてはシケインのないレイアウトで、スタートから集団状態のままスリップストリームの奪い合いの展開となることが多く、毎周の様に順位が入れ替わる激しいレース展開が見られた。
[編集] イタリアグランプリ以外のF1レース
イタリア国内で実施されながら、別の名称が付与されたレースがある。1957年には1国で年内に2回の開催を行ったが、1国1開催の原則等の理由により、国名ではなく開催地の名を取ってペスカーラGPという名称が付与された。
- サンマリノGP(イモラ・サーキット)
- サンマリノGPの項目を参照のこと。
- ペスカーラGP(ペスカーラ)
- 1957年に開催。イタリア共和国アブルッツォ州ペスカーラ県のペスカーラ・サーキットで開催された。この年、このペスカーラGPの2週間後にはイタリアGPが開催されており、イタリア国内で連戦となっている。ヴァンウォールのスターリング・モスが優勝している。ペスカーラは海岸沿いの田舎町であるが、バイクの製造工場がありモータースポーツとまったくの無縁ではない。このコースは全長25,572mあり、F1GPが開催されたサーキットとしては最長である。1960年頃から安全対策が叫ばれ、あまりに大きいサーキットでは事故等の救助活動に支障をきたすため今後この様な大きなサーキットは建造される見込みがなく、この最長記録は更新されない公算が非常に高い。海岸沿いに設置されたこのサーキットでは1924年から1961年までF1GP以外にも様々なレースが開催された。海岸側にはひとつの直角コーナーを挟み合計10km近くものふたつの直線があり、山側は大小さまざまなカーブの連続となっているにもかかわらず優勝平均速度は153.964km/hと極端に低くはない。
[編集] 特筆すべきレース
- 1956年のイタリアGPは最終戦開催となった。優勝したのはマセラティ250Fのスターリング・モスだが、自分の車を壊したあとピーター・コリンズから車を譲り受けたフェラーリ・ランチアD50のファン・マヌエル・ファンジオが2位に入り、ファンジオが3年連続の選手権王者を手中にしている。当時はレース中にマシンの乗り換えが許されており、1台の車に複数のドライバーが交代で乗って入賞しポイントを獲得した場合、獲得ポイントを人数で割って配分されるルールであった。この時点で唯一ファンジオ以外に王者の可能性を残すコリンズが、既に車を降りているファンジオに対し交代を申し出たことで実現した。現代の感覚からは出来レース的な感じを受けるが、当時は3台以上、ときには5台以上の車を出走させるコンストラクターが1人のエースを勝たせるというスタイルが一般的であったため、現在のチームオーダーほど批難されてはいない。
- 1961年にはF1が前年から排気量が減り1.5リットルエンジンで実施されたが、このイタリアグランプリは最終戦で実施された。前年2.5リットルエンジンで開催された際には、当時使用されていたモンツァ・サーキットのバンク区間が車体に過大な負荷をかけるとして一部ボイコットするという騒動になったが、この年は開始前にそのようなトラブルは起こらなかった。このレースでは混乱を避けるために当時まだ珍しかった2列縦隊スタートが導入されたが、この時点で選手権ランキングトップで予選でも1位のウォルフガング・フォン・トリップス(フェラーリ)がスタートに失敗、大混乱となった。2周目にはトリップスがジム・クラークを抜こうとして接触、この事故でトリップスは死亡する。このレースを制したのはトリップスと同じフェラーリに乗るフィル・ヒルで、この年のチャンピオンをも獲得した。この年限りでF1GPでバンクが使用されることはなく、その後取り壊された。
- 1967年のイタリアGPでは、スタート手順に不手際があり大変混乱したレースとなった。この混乱で一番割を食った形の、予選1位であったジム・クラークは大きく出遅れたうえに13周目に右後輪のパンクにも見舞われたにもかかわらず一時は首位を走る活躍を見せたが、結局ガス欠で3位に終わっている。レースは前戦カナダGPを欠場してまで新車を作って持ち込んだホンダのジョン・サーティースが、ジャック・ブラバムをわずか0.2秒差で振り切って優勝した。
- 1970年は年間13戦で争われた選手権の第10戦として行われたが、前戦までに5勝して選手権をリードしていたヨッヘン・リント(ロータス)がここで勝てば年間総合優勝が決まるはずであった。最終予選走行中、マシーン・トラブルのためコース・アウトしたリントのマシーンはガードレールの支柱に激突し、ミラノ市内の病院に搬送される救急車の中でリントは息を引き取った。その後リントの得点を上回る者がいなかったため、リントは自分の王座を知ることができなかった悲しいチャンピオンとなってしまった。
- 1971年にはBRMのピーター・ゲシンが優勝を飾っているが、2位との差はわずか0.01秒、5位までが0.61秒の集団状態のままゴールするという激しいレースで、ラップリーダーが延べ26回入れ替わる展開であった。ゲシンが優勝したのはこのレースただ1回であるが、このときゲシンが記録した優勝平均速度242.616km/hは、2003年のこのレースでミハエル・シューマッハが破るまで32年も守られた珍しい記録でもある。
- 1978年のイタリアGPでは、残り3戦でともにロータスのマリオ・アンドレッティとロニー・ピーターソンの2人のみが選手権王者の可能性を残す状態で開催されたが、スタート直後の多重衝突事故で赤旗中断、ドライバーら自らがピーターソンとヴィットリオ・ブランビッラの救出にあたったが、翌日未明にピーターソンは死亡。結局ブラバムのニキ・ラウダが優勝したが、アンドレッティがこの年の選手権王者を獲得した。この多重事故はアロウズのリカルド・パトレーゼが急な進路変更を行い、それを回避したマクラーレンのジェームス・ハントがピーターソンと接触して発生した。この事故の原因を作ったとみなされたパトレーゼは次戦出場停止処分となっている。しかしピーターソンもこの日の午前中、ウォームアップ走行で車体を大きく壊し、前年型のスペアカーに乗り換えていることが、スタート直後の混乱(遅い車がスタート時に前の方にいることから発生)に繋がっているともいえる。
- 1987年のイタリアGPでは、油圧スプリングを用いた簡易アクティブ・サスペンションを装備した新車を持ち込んだウィリアムズのネルソン・ピケと、年頭からアクティブ・サスペンションを使用しつづけていたロータスのアイルトン・セナのトップ争いが展開された。ピケは従来通り中盤にタイヤ交換をし、セナはアクティブ・サスと持ち前の技術を活かしタイヤ無交換で優勝を狙ったが、セナはトップ走行中で残り7周の43周目に周回遅れを抜こうとして失敗、スピンしてしまう。結局そのスピンのあいだにピケがセナを抜き、そのままセナの追走を振り切って優勝した。また、このレース開催期間中に、ホンダが翌年からマクラーレンへエンジン供給を開始することと、ウィリアムズへのエンジン供給を打ち切ることを発表、ちょっとした騒動になった。
- 1988年には、それまで開幕11連勝と圧倒的な強さを発揮していたマクラーレン・ホンダチームがシーズン唯一の敗北を喫することとなった。レース終盤にアイルトン・セナが、周回遅れで走行していたウィリアムズのジャン=ルイ・シュレッサー(病欠のナイジェル・マンセルの代役としてこのレースのみ出場)と接触してしまったことによるもので、これによりフェラーリのゲルハルト・ベルガーがトップに立ち、チームメイトのミケーレ・アルボレートと1-2体制でフィニッシュを果たした。この勝利はマクラーレン・ホンダを倒したことに加え、グランプリ直前に死去したフェラーリの総帥、エンツォ・フェラーリに捧げる勝利として、ティフォシたちを喜ばせることとなった。
- 1993年は、チャンピオンに王手をかけて臨んだウィリアムズ・ルノーのアラン・プロストがポールポジションからスタートし、レース終盤までトップ走行するも、エンジントラブルによりストップしてしまい、代わってトップに立ったチームメイトのデイモン・ヒルがハンガリーGPでの初優勝からの3連勝となる勝利をつかむこととなった。
- 1995年は、チャンピオン争いをしていたベネトン・フォードのミハエル・シューマッハとウィリアムズ・ルノーのデイモン・ヒルがレース中盤にアクシデントによりともにリタイアし、シューマッハのチームメイトのジョニー・ハーバートが自身F1での2勝目を飾ることとなった。
- 1999年は、マクラーレン・メルセデスのミカ・ハッキネンがチャンピオンに向けてレースをリードしていたが、レース中盤にまさかのスピンによりリタイアを喫し、ジョーダン・無限のハインツ=ハラルト・フレンツェンがシーズン2勝目を飾った。尚、ハッキネンはリタイアした後、マシンを降りてひざまずき涙していたが、このシーンがテレビ中継され、ハッキネンの「人間臭さ」を広く知らしめることとなった。
- 2000年は、レース1周目に、フェラーリのルーベンス・バリチェロ、マクラーレン・メルセデスのデビッド・クルサードら7台が絡む事故が発生したが、この事故によりコースマーシャルの1人が犠牲になるという痛ましい事態になった。この事故を受け、レーストラックだけでなく、コース外の安全性にも一層の配慮がされることになった。
- 2001年は、レース直前に発生したニューヨークでのアメリカ同時多発テロ事件の犠牲者を悼み、フェラーリがノーズ部分を黒くペイントし、一切のスポンサーロゴを外すなど、各チームが追悼ムードに包まれた。レースではウィリアムズ・BMWのファン・パブロ・モントーヤが自身F1初優勝を果たすが、恒例のシャンパンファイトは行われなかった。
- 2003年、前戦ハンガリーGPでフェルナンド・アロンソに周回遅れにされるなどして不振を極めていたミハエル・シューマッハが、復活の勝利を果たし、このままこの年の王座に輝くことになる。またこのレースで、32年ぶりに優勝スピードが更新され、247.585km/hを記録した。
- 2004年は、レース直前に降った雨の影響から、このシーズンに圧倒的な強さを見せていたフェラーリのミハエル・シューマッハとルーベンス・バリチェロがレース序盤に中団以降に後退することとなった。これにより、B・A・Rホンダのジェンソン・バトンの自身F1初優勝とホンダ第3期参戦後初優勝が期待されたが、フェラーリ勢の脅威の追い上げの前に敗れることとなった。
- 2005年には、出走した20台がすべて完走したが、これは1961年のオランダGP(この時は15台出走)以来、実に44年ぶりの「大記録」であった。また、キミ・ライコネンが最高速370km/hオーバーを記録した。
[編集] 過去の結果と開催サーキット
各グランプリの結果は下記の通り。
[編集] イタリアGP
年 | 決勝日 | ラウンド | サーキット | 勝者 | 所属チーム |
---|---|---|---|---|---|
1950 | 9月3日 | 7 | モンツァ | ジュゼッペ・ファリーナ | アルファロメオ |
1951 | 9月16日 | 7 | モンツァ | アルベルト・アスカーリ | フェラーリ |
1952 | 9月7日 | 8 | モンツァ | アルベルト・アスカーリ | フェラーリ |
1953 | 9月13日 | 9 | モンツァ | ファン・マヌエル・ファンジオ | マセラティ |
1954 | 9月5日 | 8 | モンツァ | ファン・マヌエル・ファンジオ | メルセデス |
1955 | 9月11日 | 7 | モンツァ | ファン・マヌエル・ファンジオ | メルセデス |
1956 | 9月2日 | 8 | モンツァ | スターリング・モス | マセラティ |
1957 | 9月8日 | 8 | モンツァ | スターリング・モス | ヴァンウォール |
1958 | 9月7日 | 10 | モンツァ | トニー・ブルックス | ヴァンウォール |
1959 | 9月13日 | 8 | モンツァ | スターリング・モス | クーパー |
1960 | 9月4日 | 9 | モンツァ | フィル・ヒル | フェラーリ |
1961 | 9月10日 | 7 | モンツァ | フィル・ヒル | フェラーリ |
1962 | 9月16日 | 7 | モンツァ | グラハム・ヒル | BRM |
1963 | 9月8日 | 7 | モンツァ | ジム・クラーク | ロータス |
1964 | 9月6日 | 8 | モンツァ | ジョン・サーティース | フェラーリ |
1965 | 9月12日 | 8 | モンツァ | ジャッキー・スチュワート | BRM |
1966 | 9月4日 | 8 | モンツァ | ルドヴィコ・スカルフィオッティ | フェラーリ |
1967 | 9月10日 | 9 | モンツァ | ジョン・サーティース | ホンダ |
1968 | 9月8日 | 9 | モンツァ | デニス・ハルム | マクラーレン |
1969 | 9月7日 | 8 | モンツァ | ジャッキー・スチュワート | マトラ |
1970 | 9月6日 | 10 | モンツァ | クレイ・レガッツォーニ | フェラーリ |
1971 | 9月5日 | 9 | モンツァ | ピーター・ゲシン | BRM |
1972 | 9月10日 | 10 | モンツァ | エマーソン・フィッティパルディ | ロータス |
1973 | 9月9日 | 13 | モンツァ | ロニー・ピーターソン | ロータス |
1974 | 9月8日 | 13 | モンツァ | ロニー・ピーターソン | ロータス |
1975 | 9月7日 | 13 | モンツァ | クレイ・レガッツォーニ | フェラーリ |
1976 | 9月12日 | 13 | モンツァ | ロニー・ピーターソン | マーチ |
1977 | 9月11日 | 14 | モンツァ | マリオ・アンドレッティ | ロータス |
1978 | 9月10日 | 14 | モンツァ | ニキ・ラウダ | ブラバム |
1979 | 9月9日 | 13 | モンツァ | ジョディー・シェクター | フェラーリ |
1980 | 9月14日 | 12 | イモラ | ネルソン・ピケ | ブラバム |
1981 | 9月13日 | 13 | モンツァ | アラン・プロスト | ルノー |
1982 | 9月12日 | 15 | モンツァ | ルネ・アルヌー | ルノー |
1983 | 9月11日 | 13 | モンツァ | ネルソン・ピケ | ブラバム |
1984 | 9月9日 | 14 | モンツァ | ニキ・ラウダ | マクラーレン |
1985 | 9月8日 | 12 | モンツァ | アラン・プロスト | マクラーレン |
1986 | 9月7日 | 13 | モンツァ | ネルソン・ピケ | ウィリアムズ |
1987 | 9月6日 | 11 | モンツァ | ネルソン・ピケ | ウィリアムズ |
1988 | 9月11日 | 12 | モンツァ | ゲルハルト・ベルガー | フェラーリ |
1989 | 9月10日 | 12 | モンツァ | アラン・プロスト | マクラーレン |
1990 | 9月9日 | 12 | モンツァ | アイルトン・セナ | マクラーレン |
1991 | 9月8日 | 12 | モンツァ | ナイジェル・マンセル | ウィリアムズ |
1992 | 9月13日 | 13 | モンツァ | アイルトン・セナ | マクラーレン |
1993 | 9月12日 | 13 | モンツァ | デイモン・ヒル | ウィリアムズ |
1994 | 9月11日 | 12 | モンツァ | デイモン・ヒル | ウィリアムズ |
1995 | 9月10日 | 12 | モンツァ | ジョニー・ハーバート | ベネトン |
1996 | 9月8日 | 14 | モンツァ | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ |
1997 | 9月7日 | 13 | モンツァ | デビッド・クルサード | マクラーレン |
1998 | 9月13日 | 14 | モンツァ | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ |
1999 | 9月12日 | 13 | モンツァ | ハインツ=ハラルト・フレンツェン | ジョーダン |
2000 | 9月10日 | 14 | モンツァ | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ |
2001 | 9月16日 | 15 | モンツァ | ファン・パブロ・モントーヤ | ウィリアムズ |
2002 | 9月15日 | 15 | モンツァ | ルーベンス・バリチェロ | フェラーリ |
2003 | 9月14日 | 14 | モンツァ | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ |
2004 | 9月12日 | 15 | モンツァ | ルーベンス・バリチェロ | フェラーリ |
2005 | 9月4日 | 15 | モンツァ | ファン・パブロ・モントーヤ | マクラーレン |
2006 | 9月10日 | 15 | モンツァ | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ |
[編集] ペスカーラGP
年 | 決勝日 | ラウンド | サーキット | 勝者 | 所属チーム |
---|---|---|---|---|---|
1957 | 8月18日 | 7 | ペスカーラ | スターリング・モス | ヴァンウォール |
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- フォーミュラ1公式ウェブサイト(英語のみ)
F1世界選手権: |
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かつて開催されていたGP: アルゼンチン | オーストリア | サンマリノ | オランダ | インディ500 | ルクセンブルグ | メキシコ | モロッコ | |