ジョーダン・グランプリ
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参戦年度 | 1991 - 2005 |
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出走回数 | 250 |
コンストラクターズタイトル | 0 |
ドライバーズタイトル | 0 |
優勝回数 | 4 |
通算獲得ポイント | 291 |
表彰台(3位以内)回数 | 19 |
ポールポジション | 2 |
ファステストラップ | 2 |
F1デビュー戦 | 1991年アメリカGP |
初勝利 | 1998年ベルギーGP |
最終勝利 | 2003年ブラジルGP |
最終戦 | 2005年中国GP |
ジョーダン・グランプリ (Jordan Grand Prix) は、1991年から2005年までF1に参戦していたコンストラクター。1980年代から90年代にF1に参戦した新興チームの中ではもっとも成功したチームのひとつ。日本のエンジンサプライヤーの多く(ヤマハ、無限ホンダ、ホンダ、トヨタ)からエンジン供給を受けたチームとしても知られる。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 1990年代
アイルランド出身のエディ・ジョーダンが設立したエディ・ジョーダン・レーシング(EJR)が前身。イギリスF3選手権や国際F3000選手権などの中位カテゴリーで活躍した後、1991年よりジョーダン・グランプリに改名しF1に参戦した。
1991年は、参戦初年であるにもかかわらずワークス仕様であるフォードHBエンジンを獲得し、メインスポンサーにペプシコーラ社ブランドの「7up」が付き(日本GPの時のみ、当時の日本ペプシコの販売戦略上の理由で7upではなく「ペプシ」のロゴに変更)、富士フイルムやヘルメットメーカであるショウエイ等のスポンサーも獲得した。
しかし参戦初年度のチームであった為に、ドライブの力量だけではなく持込み資金の額もドライバー選考の重要な要件となっていた。デザイン面では巨大なフロントウイングを持ち、エアロダイナミクスでは冒険はせず非常にオーソドックスと言えるデザインであった。アイルランドのナショナルカラーの緑色にペイントされ1990年代最も美しいと言われるマシンであるジョーダン191は、初年度からトップチームに迫る速さを見せる。オフシーズンでは「ジョーダン911」と表記されていたのが、同名の車種を持つポルシェからの抗議によって「191」になるというエピソードを持っている。
なお、後に7度のワールド・チャンピオンとなるミハエル・シューマッハは、この年のベルギーGPでジョーダンからメルセデス・ベンツが用意した持参金を持ち込んでデビューを飾っている。またこのGPでアンドレア・デ・チェザリスがレース後半にトップに追い付く走りをしていたが、オイル不足によるエンジンブローでリタイヤした。これはコスワースから今まで供給していたエンジンよりオイル消費量が多くなったタイプのエンジンが供給された事実がチームへ通知されていなかった事がレース後に発覚。この事態を受けオーナーであるジョーダンはコスワースに見切りを付け、翌年も交わすはずだったエンジン供給契約を打切った。
1992年にはオイルメーカーSASOL社が南アフリカ企業として初めてメインスポンサーとなり、日本のヤマハエンジンも獲得。ドライバーはステファノ・モデナとマウリシオ・グージェルミンと契約。ギアボックスにF1初の前後の押し引きでギアチェンジが出来る「シーケンシャル」タイプを導入し(後にオートマチックギアが禁止されて、シーケンシャルギアが禁止されていないカテゴリーの殆どに採用される)時折速さは見せるものの前年度のV8エンジン搭載を前提としたシャシーを小改造して用いたため、ラジエーターの容量が圧倒的に不足していた。結果としてエンジンのパワー不足とギアボックスの信頼不足によって予選落ちもあり、最終戦のオーストラリアGPで6位入賞(1ポイント)の1回と不振に陥る。
1993年はハートV10を搭載して、セミオートマチックギアボックスとアクティブサスペンションの簡易版である車高調整システムを投入しルーベンス・バリチェロをエースドライバーに、セカンドドライバーには前年にフェラーリでドライブしたイヴァン・カペリと契約したが、カペリは僅か2戦で解雇となる。後釜として起用したティエリー・ブーツェンもバリチェロに合わせて作られたモノコックのサイズに体が合わず成績も振るわずに母国ベルギーGPをもって引退した為、終盤戦ではセカンドシートをドライバーの持ち込み資金で切り売りする事となった。
1994年バリチェロは残留、前年の日本GPでスポット参戦ながら6位入賞を果たしたエディ・アーバインと契約。またチーム初めての表彰台(パシフィックGP)と初めてのポールポジション(ベルギーGP)を獲得する等の活躍があったが、エンジンのパワー不足と信頼性不足に悩み、思ったような成績が残せなかった。この年も前年に引続きハートエンジンを使用したのだが、エンジンメーカーではない「チューナー」が製作したエンジンとしては十分なパフォーマンスを見せたとは云え、開発資金の一部をジョーダンサイドが負担をしていた等、ワークスエンジンと勝負するには厳し過ぎる状況であった。
1995年は前年にマクラーレンと組んでいたプジョーエンジンを獲得し、資金面とチーム体制も更に強化して、第6戦カナダGPでは2,3位に入る活躍をした。 チームはドライバーラインナップを変更せずに翌96年シーズンも戦うと発表したが、翌年の参戦契約を結んでいたアーバインが突如フェラーリと電撃契約をした事の見返りとしてチームがアーバインに支払うはずだった契約金とフェラーリから契約そのものを買取った分の多額の資金を得る事となった。
1996年はマーティン・ブランドルとセカンドドライバー契約をし、インペリアル・タバコ社のベンソン&ヘッジス・タバコ(BENSON&HEDGES)をメインスポンサーとしてレースに参戦。前年までのトラブルは開発が進んだ事で信頼性が著しく上がりパワーも十分出るようにエンジンはなったが、シャーシの開発が思うように進まなかった影響でセッティングは思うように決まらず、一度も表彰台に上がる事は無かった。
1997年はジャンカルロ・フィジケラとラルフ・シューマッハがドライバーとなるが、第3戦アルゼンチンGPで3位にラルフが入賞するものの、レース途中にチームメート同士が接触した結果の表彰台で、これを機に2人の関係は一気に冷え込むこととなる。
1998年には無限エンジンを搭載。第13戦ベルギーGPでデイモン・ヒルにより初優勝を果たし(2位にはラルフ・シューマッハで1-2フィニッシュ)、チームも最終戦でコンストラクターズ4位を獲得し、当時絶対の存在であったトップ4チーム(マクラーレン、フェラーリ、ウィリアムズ、ベネトン)の牙城を崩す殊勲を果たした。
1999年は、パワフルな無限エンジンとバランスのいいシャシーのマッチングのよさも手伝って、ハインツ=ハラルト・フレンツェンが2勝(フランスGPとイタリアGP)を挙げドライバーズチャンピオン争いに絡み、チームもコンストラクターズ選手権3位に入る大活躍を見せた。当時資金力で別格であったトップ2チーム(マクラーレン、フェラーリ)との溝は大きく存在したものの、以下グループでは最上位だった。
[編集] 2000年代
しかし1999年の成績をピークに徐々に成績が低下し、2001年のシーズン終了後にはメインスポンサーのベンソン&ベッジスが支援を大幅に縮小した為、2002年はスポンサーの一つであったDHL(ドイチェポスト)がメインスポンサーとなる。
2001年は、イギリスF3チャンピオンの佐藤琢磨と契約を結ぶ事で、ホンダからのエンジン使用料の大幅減額の恩恵を受けるも、スポンサーからの資金が十分でなかった影響でテストもままならず車の開発が進まず成績不振で終わる。2002年限りでメインスポンサーだったDHLがチームから撤退してしまい、これまでチームの規模を大きくして来ていたことも災いしてか、一気に資金難に喘ぐようになった。
せっかく2001年に獲得したホンダエンジンも、2003年以降は佐藤琢磨がチームに残留したとしてもそれまでの大幅減額は継続されない事が確定した故にエンジン使用料金を用意できず使用継続を断念。2003年からは使用料が安いフォード系のコスワースエンジンを使用することとなり、また車体開発に十分な資金を投入する事が出来なくなった結果としてチームはミナルディとの最下位争いが精一杯となってしまう。
その苦境の中、2003年ブラジルGPにおいてジャンカルロ・フィジケラが奇跡の優勝を果たした。セカンドドライバーにイギリス人のラルフ・ファーマンと契約する事でベンソン&ヘッジス社からの支援額が若干上乗せされはしたが、資金不足が根本的に解消される事は無かった。
ホンダからのエンジン供給が打ち切られて以降は、2003年と2004年はフォード系のコスワースからエンジン供給を受け、フォードのF1撤退を受けて2005年シーズンにはトヨタからエンジン供給を受けた。アメリカGPではミシュランタイヤによるトラブルの影響でミシュランユーザーの全てのマシンが決勝レースをフォーメンションラップのみでピットイン(事実上のレースボイコット)。フェラーリの2台に続いてティアゴ・モンテイロが3位となり、ジョーダングランプリ最後の表彰台に立ち、セカンドドライバーのナレイン・カーティケヤンも続く4位に入賞した。
2005年1月24日に、アレックス・シュナイダー率いるミッドランドグループへのチーム売却が発表されると同時に、オーナーのエディ・ジョーダンがチームを追われたのため、14年間にわたるチームの歴史はこの段階で事実上終焉を迎えていたが、2006年にはチームの名称がMF1に変更されるに至り、名実ともに新たな歴史を刻むこととなった。
[編集] 新人発掘
ジョーダンはミナルディとともに新人ドライバーの発掘に秀でていると言われていた。
EJR時代には、F3でアイルトン・セナやジョニー・ハーバートを、国際F3000ではジャン・アレジやエディ・アーバインを輩出している。
F1においても、1991年にベルトラン・ガショーがシーズン途中に逮捕された際にミハエル・シューマッハを代役にたてデビューさせ(次戦で早くもベネトンに奪われることとなったが)、他にも1993年にはルーベンス・バリチェロとエディ・アーバインをデビューさせ、1997年にはラルフ・シューマッハをデビューさせると共にジャンカルロ・フィジケラ(当時ミナルディ所属)を抜擢するなど、後の有力ドライバーを続々と輩出している。佐藤琢磨も2002年にジョーダンからデビューしている。