Manchester Mark I
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Manchester Mark I(まんちぇすたーまーくわん)は、黎明期の電子計算機のひとつで、1949年にイギリスのマンチェスター大学で製作された。Manchester Automatic Digital Machine(MADM)とも呼ばれる。Small-Scale Experimental Machine(SSEM、またの名を "Baby")をベースとして開発された。歴史上重要な特徴として、初めて一種のインデックスレジスタをアーキテクチャ上採用した点、世界初の本格的な高級プログラミング言語であるAutocodeが開発されたプラットフォームである点が挙げられる。
Mark I の開発は、SSEMでのプログラム内蔵方式の有効性が実証されてから開始された。プログラム内蔵方式によってマシンの柔軟性が飛躍的に向上したのである。この手法は他の研究者からも注目されていた。例えば、アラン・チューリングの成果であるPilot ACE、ケンブリッジ大学のEDSAC、アメリカのEDVACなどである。SSEMが他と異なっていた点は第一にメモリシステムの選択である。彼らは水銀遅延線よりも高速なウィリアムス管を選択した。
SSEMのデモが成功したことにより、英国政府は1948年10月に フェランティ(Ferranti)社と契約を結び、そのコンセプトを実用可能なスケールのマシンに実装する作業を委託した。設計上の鍵となる改良点はプログラムをウィリアムス管メモリにロードするのに磁気ドラムメモリを使用することで、SSEMで使っていた紙テープを置き換えた点、さらにインデックスレジスタとハードウェアによる乗算器を追加した点である。ワード長は32ビットから40ビットに拡張され、4つの10ビット・ショートワードとして読み書きされる。命令は10ビット、アドレスは20ビット、数値は40ビットで表される。命令が10ビットなので1024種類となるが、最終バージョンでも30種類の命令しかなかった。標準的な命令処理時間は 1800マイクロ秒だが、乗算にはもっと時間がかかった。Manchester Mark I をベースにした Ferranti Mark I では、加算命令は 1200マイクロ秒、乗算命令は 2160マイクロ秒を要した。
SSEMでは、ウィリアムス管の一部をふたつのレジスタ(アキュムレータ A と プログラムカウンタ C)として使用している。Mark I ではさらに乗算の際の一方を保持するレジスタ D と、インデックスレジスタとして使うレジスタ B を持っている。システムは 20ビットアドレスなので、ウィリアムス管の B-line はふたつのアドレスオフセットを保持できる。これが知られている限りでは世界初のインデックス/ベース・レジスタの実装であり、コンピュータアーキテクチャとしては重要だが、他のマシンで採用されるのは1955年以降の第二世代のコンピュータからである。Mark I はふたつのウィリアムス管を持っており、それぞれ 64×40ビットを倍密度で記憶するので全体として128ワードとなる。64ワードを 1ページとみなすので、システム全体としては 4ページの記憶域がある。これを元に Freddie Williams は磁気ドラムメモリから 2ページのウィリアムス管にプログラムをロードするように設計した。1トラックにつき 2×32×40 = 2560ビット で 32 トラック構成である。ドラムはウィリアムス管のリフレッシュレートに合わせて回転し、リフレッシュの間にページの読み書きして処理を行った(リフレッシュ間で約30サイクル)。
最初のマシンは中間バージョンとして1949年4月に動作した。このバージョンはほとんど完成していたが、入出力命令がなく、ドラムからウィリアムス管、紙テープからドラムへのデータ転送機能が完成していなかった。
最初の実用的プログラムが動作したのは1949年4月の早い時期で、メルセンヌ数のテストをするプログラムであった。1949年6月の16日から17日にかけてエラーを起こさずに9時間連続で動作した。最終バージョンは1949年10月に完成している。このバージョンではドラムが2台となり、入出力命令が追加されてウィリアムス管/磁気ドラムメモリ/紙テープの間でデータをコピーすることができるようになっている。また、磁気ドラムは47トラックに容量アップしている。
演算回路には4200本の真空管が使われ、これが大きな信頼性問題となった。試算によれば、約25%の時間は真空管か磁気ドラムのトラブルでマシンがダウンしていた。とは言え、大学はマシンを一時間50ポンドで外部に貸すことで経済的な成功を収めた。
Mark I が動作すると、開発はいくつかの方向に分かれて続けられた。Dick Grimsdale と Doug Webb は Mark Iの信頼性を向上させようとトランジスタ化を行った。彼らが1953年11月に完成させたトランジスタ・コンピュータの試作機はおそらく世界初と思われる。彼らの成果は Metropolitan-Vickers 社が買い取り、Metrobick 950 を開発し 7台を販売した。
Mark I 開発チームの主体である Tom Kilburn と Freddie Williams はコンピュータは純粋数学よりも科学技術計算で使うべきだと考え、分離された浮動小数点演算装置を備えた新しいマシンの開発を開始した。完成したマシン Meg は、Mark Iよりも単純で数値演算は高速だった。Mark I を実際に製作したフェランティ社は、Meg に磁気コアメモリを装備させ、Ferranti Mercury として販売した。
Mark I開発チームには、後に結婚した数学者のコンウェイ・バーナーズ=リーとメアリー・リー・ウッズがいた。彼らの息子ティム・バーナーズ=リーはWorld Wide Webを発明した人物として有名である。
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いずれも英文。