アラン・チューリング
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アラン・チューリング(Alan Mathison Turing, 1912年6月23日 - 1954年6月7日)はイギリスの数学者。
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[編集] 略歴
チューリングは現代計算機科学の父と言われている。チューリング・テストでは、人工意識(機械が意識を持ち思考することができるか)についての議論に挑発的かつ大きな影響を与えた。チャーチ=チューリングのテーゼのチューリング版として広く認識されているチューリングマシンでは、計算とアルゴリズムの概念の形式化手法を提供した。実用的なほとんどのコンピュータモデルはチューリングマシンと同等かサブセットの機能を持っている。
第二次世界大戦の間、チューリングはブレッチレイ・パークにあるイギリスの暗号解読センターの政府暗号学校で働いた。彼はドイツの暗号を解読するいくつかの手法を考案し、英国の海上補給線を脅かすドイツ海軍のUボートの暗号通信を解読する部門 (Hut 8) の責任者となった。彼はエニグマの設定を見つけるための機械 bombe を発明した。
戦後、国立物理学研究所 (NPL) に勤務し、プログラム内蔵式コンピュータの初期の設計のひとつACEに携わったが、それは実際には製作されなかった。1947年、マンチェスター大学に移ると、初期のコンピュータ Manchester Mark I のソフトウェア開発に従事した。
1952年、チューリングは同性愛の罪で逮捕された。彼は保護観察の身となり、ホルモン療法を受けさせられた。 1954年、死去。検死によると、リンゴに青酸化合物をたらして食べた自殺ということが判明した。
[編集] 出生から大学進学前まで
チューリングは1911年、インドの Chatrapur で生まれた。彼の父ジュリアス・チューリングはインドで公務員として働いていたが、ジュリアスとその妻エセルはアランをイギリス本国で育てたいと考え、ロンドンに戻った。彼の父の公務員としての任期は続いていたため、アランの幼年期に両親はインドとイギリスを行ったり来たりする生活を送った。インド滞在中、植民地で健康を害する危険を避けるため、息子ふたりはイギリスの友人に預けられた。幼年期のアランは天才の片鱗を見せ始めた。文字を読むことは三週間で覚え、数字とパズルが非常に得意だったという。
6歳のとき両親は彼をセント・マイケルズ学校に入学させた。校長は、その後の彼の教師がそうだったように、彼の才能にすぐ気づいた。1926年、14歳のとき、彼はシャーボーン学校にも入学した。登校初日がイギリス中がゼネストと予定された日に重なったため、彼は前日から60マイルの距離を一人で自転車で行くことにして、途中で宿をとって登校した。この偉業はローカル紙で報道された。
チューリングの数学と科学への興味は、シャーボーンの教師たちとは合わなかった。シャーボーンは有名なパブリックスクール(イギリスの私立学校)であり、その校風は古典を重視するものだったのである。校長は両親に次のような手紙を書いている。「彼がふたつの学校の間で落ちこぼれないことを望みます。彼がパブリックスクールに留まるなら、彼は教養を身に付けねばなりません。彼が単に科学者になるのなら、パブリックスクールに通うのは時間の無駄です。」 (Hodges, 2000, p26)
このようなことがあっても、チューリングは学問に対する驚くべき能力を示し、初等微分積分学も習っていない1927年にもっと難しい問題を解いていた。1928年、16歳でチューリングはアルバート・アインシュタインの書いた文章に触れた。そしてそれを理解しただけでなく、明記されていなかったニュートン力学についてのアインシュタインの疑問を外挿して推定したという。
チューリングは友人のクリストファー・モルコムに恋をしたが報われることはなかった。モルコムはシャーボーンの最後の学期で牛型結核症を患って死去した(感染牛のミルクを小さいころに飲んだため)。
[編集] 大学時代と計算可能性についての研究
数学や科学ほど古典をまじめに学ばなかったため、チューリングはケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジの奨学金を受けられず、第二希望のキングス・カレッジ(ケンブリッジ大学)へ進学した。1931年から1934年まで学生として学び、顕著な成績を修めて卒業、1935年にガウス誤差関数に関する論文が認められてキングス・カレッジのフェロー(特別研究員)に選ばれた。
彼の重要な論文 "On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem"(「計算可能数,ならびにそのヒルベルトの決定問題への応用」、1936年5月28日)でチューリングは1931年にクルト・ゲーデルが発表した不完全性定理を別の形式で公式化した。つまり、ゲーデルの純粋数学的公式をチューリングマシンと呼ばれる形式的で単純なデバイスで置き換えたのである。彼は、考えられるあらゆる数学の問題をアルゴリズムとして表現しさえすれば、そのようなマシンで解くことが出来ることを証明した。もっとも、チューリングマシンは実物が存在したわけではなく、実現させたとしても当時すでに存在した計算器よりも性能が悪そうだった。今日ではチューリングマシンは計算理論を学ぶ際の主題となっている。この論文では、さらにチューリングマシンが停止判定できないことから「決定問題」に答えがないことを証明した。つまり、任意のチューリングマシンが停止するかどうかをアルゴリズムで判断することができないことを示したものである。この証明はアロンゾ・チャーチのラムダ算法による同等の証明の直後に発表された。チューリングの成果はずっとわかりやすく直感的である。また、いかなるマシンの仕事も実行できる「万能(チューリング)マシン」という考え方も示された。この論文ではまた決定可能数の記述法も導入した。チューリングマシンの停止判定不可能の証明は、コンピュータにできないことがあることを示している。例えば、万能ウィルス発見プログラムは作れないし、プログラムが盗作かどうかを完璧に判定するプログラムも作れない。同様にプログラムにバグがあるかどうかを完璧に判定するプログラムも作れない。このことは、無駄なソフトウェア開発を防ぐという意味で有意義であった。
1937年から1938年にかけて、彼はプリンストン大学でアロンゾ・チャーチのもとで学んだ。1938年、プリンストンで博士号を得ている。彼の博士論文では、数の広がり(正の整数→負数→無理数→虚数)とその公理体系の進化についてすべてを包含する「順序数」という概念の体系を整理しようとした。この時期、ジョン・フォン・ノイマンも同じプリンストンにおり、二人は親交があったと言われている。ノイマンはチューリングにアメリカに残ることを勧めたという。
1939年にケンブリッジに戻ると、彼はルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの数学基礎論という講義に出ている。ウィトゲンシュタインの数学批判に対して、チューリングは数学を防御している。
[編集] 暗号解読
第二次世界大戦の間、チューリングはブレッチレイ・パークで大きな功績を残した。チューリングの暗号解読に関しては1970年代まで極秘とされ、彼のごく近い友人すらそのことを知らなかった。彼は、エニグマと Lorenz SZ 40/42(英国が"Tunny"と名づけたテレタイプ用暗号機)について数学的洞察を与え、一時期はドイツ海軍の暗号解読部門 (Hut 8) の責任者となった。
1938年9月から、彼はパートタイムで英国政府の暗号解読学校で働いていた。1939年9月に開戦すると、チューリングは暗号解読部門の本拠地が置かれたブレッチレイ・パークで働くことになった。エニグマを解読するために、そのローターの設定を見つけ出す電気機械 bombe を開発した。この名称はポーランドの数学者が開発した暗号解読機 Bomba にちなんでいる。bombe を使うことでエニグマのプラグボードの設定を無効化してローターの設定だけを検討することができる。さらにローターの設定も一瞬で探索すべき可能性を減らすことができる。そして後は総当りでローターの設定を試すのだが、平均で15分程度で解読できたという。bombe は1940年3月18日に最初に完成し、エニグマ解読に威力を発揮した。終戦時には200台以上の bombe が使用されていた。bombe はアナログ式でありエニグマの設定を探索する専用機械であり、コンピュータではない。
1941年春、チューリングは女性にプロポーズしているが、後に自分が同性愛者であることを告白して破談となっている。1942年11月、チューリングはアメリカを訪れ、英米間の盗聴されない通信手段を確立する仕事をし(エニグマ解読法についてもアメリカ側に伝え)、1943年3月に帰国した。この間に Hut 8 の責任者は変わっていたため、チューリングはブレッチレイ・パークの暗号解読コンサルタントのような立場となった。その後、終戦までのチューリングは携帯型で盗聴されない通話装置 Delilah の開発に従事し、電子工学への造詣を深めた。Delilah は遠距離無線通話ができず、終戦までに完成できなかった。チューリングは役人の前でウィンストン・チャーチルのスピーチを暗号化して元に戻すデモンストレーションを行ったが、使われることはなかった。
なお、Colossusは Lorenz マシンの暗号解読に使われた計算機であり、こちらの開発にはチューリングは関わっていない。この点を間違って記述しているものが多いので注意が必要である(下記のサリー大学のWebなど)。
[編集] 初期のコンピュータに関する仕事とチューリングテスト
1945年から1947年まで、彼は国立物理学研究所 (NPL) にて、ACE (Automatic Computing Engine) の設計を行った。彼は 1946年2月19日の論文でプログラム内蔵式コンピュータの完全なデザインを明らかにしている。ACEは万能チューリングマシンの実現を念頭に置いて設計され、チューリングはその上で人工知能を実現しようとしていたと見られる。ACEは性能重視で設計されており、非常に使いにくいものだった。しかし、そのような研究は時代の要請に合わず、チューリングは干されて 1947年終盤から一年間のサバティカルでケンブリッジ大学に戻っている間にまだ始まってもいないACEの開発は中止された。1949年、彼はマンチェスター大学のコンピュータ研究室に移った。そこで彼は初期のコンピュータ Manchester Mark I 上でソフトウェア開発に従事している。
この時期に概念的な仕事もしていて、「計算機構と知能」(1950年10月、Mind誌)という論文で人工知能の問題を提起し、チューリングテストとして知られる実験を提案している。ただし、チューリング自身はこれを軽い気持ちで書いたと言われ、同僚の前で笑いながら論文を読んだという逸話も残っている。1948年、チューリングは存在しないコンピュータ用のチェスプログラムを書き始めた。1952年、当時のコンピュータは性能が低かったので、チューリングは自分でコンピュータをシミュレートしてチェスの試合を行った。一手打つのに30分かかったという。チューリングのプログラムは勝利したが、対戦相手は同僚の奥さんである。
[編集] 形態形成と数理生物学に関する仕事
チューリングは 1952年から、亡くなる 1954年まで数理生物学、特に形態形成について研究を行った。彼は "The Chemical Basis of Morphogenesis"(形態形成の化学的基礎)と題する論文を1952年に発表している。彼のこの分野での興味は、フィボナッチの葉序研究、すなわち植物の葉のつき方に現れるフィボナッチ数の存在であった。彼は拡散方程式を用いたが、これは形態形成の分野で現在よく使われる手法である。その後の論文は 1992年の Collected Works of A.M. Turing の出版まで未発表だった。
[編集] 同性愛の告発とチューリングの死
チューリングは同性愛者であったが、当時それは違法だった。1952年、彼が自宅に招いた同性愛者から別の者に話が伝わったことから泥棒に入られてしまった。チューリングは警察に通報したが、結果として同性愛者であることが警察の知るところとなり、チューリングは有罪となった。しかし投獄されることはなく保護観察となり、同性愛の性向を矯正するために性欲を抑える(と考えられていた)女性ホルモンを投与される。
1954年、彼は青酸化合物の毒で死亡した。そのそばには齧った跡のあるリンゴが落ちていたという。このリンゴに青酸化合物が塗ってあったのかどうかは調べられておらず、青酸中毒死であることは後の検死で判明した。多くの人は、これが自殺であると考えている。また、この死に方は彼が好きだった映画『白雪姫』を真似たという噂もある。彼の母は、実験用化学物質を不注意に扱った事故であると激しく主張した。彼の友人は、母親にこのようなもっともらしい誤解をさせるように、慎重に準備していたのではないか(つまり、実験器具を整理しないなどして事故と思わせるようにした)と話す者もいた。暗殺説もささやかれた。チューリングは戦後も(同性愛を告発されるまで)政府の暗号解読などについてのコンサルタントをしていたため、政府の機密に多く接していたからである。
[編集] 再評価
1998年6月23日、チューリングの86回目の誕生日にアンドリュー・ホッジス(参考文献にある伝記作者にして数学者)は公式の英国遺産としてブルー・プラークをチューリングの生家であったロンドンの Warrington Crescent の Colonnade ホテル [1], [2] に掲げた。
チューリングの銅像が、2001年6月23日にマンチェスターの Sackville Park に置かれた。2004年6月7日には死去50周年を記念して、チューリングが住んでいた Wilmslow Hollymeade の家に記念のプラーク(記念銘板)が設置された。
ACMは、コンピュータ社会に技術的に貢献した人物にチューリング賞を授与している。これは、コンピュータ関係者のノーベル賞と考えられている。
2004年夏、マンチェスター工科大学とマンチェスター大学はアラン・チューリング研究所を設立した。
チューリングの生涯と業績に関する催しが2004年6月5日にマンチェスター大学で行われた。主催は英国論理学会議と英国数学史学会である。
2004年10月28日、アラン・チューリング死去50周年を記念してサリー大学 [3] のキャンパス内に銅像が置かれた(アラン・チューリングが幼少時に住んでいた町にある大学)。
[編集] 参考文献
- Hodges, Andrew, Alan Turing: The Enigma. Simon & Schuster, 1983. ISBN 0-671-49207-1. Also: Walker Publishing Company, 2000.
- 『甦るチューリング -コンピュータ科学に残された夢 -』星野力(著)、NTT出版(2002年)、ISBN 4-7571-0079-5
[編集] 関連項目
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