MBT-70
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
![]() |
|
MBT-70(Kpz.70) | |
---|---|
性能諸元 | |
全長 | 9.10 m |
車体長 | |
全幅 | 3.51 m |
全高 | 3.29 m |
重量 | 50.5 t |
懸架方式 | 油気圧式 |
速度 | 65 km/h |
行動距離 | 650 km |
主砲 | 152mmガン・ランチャー XM150E5(アメリカ仕様) 120 mm滑腔砲(西ドイツ仕様) |
副武装 | 20 mm 対空機関砲(750発) 7.62 mm M73機関銃(6000発) |
装甲 | 複合装甲 |
エンジン | V型12気筒 空冷ディーゼルエンジン 1475 hp |
乗員 | 3 名 |
MBT-70は、1960年代にアメリカと西ドイツが共同で開発に着手した第2世代MBT(主力戦車)に替わる次世代戦車の試作車。両国の設計方針の不一致や開発費の大幅超過により1971年11月に開発が中止。後に開発されたM1エイブラムスやレオパルド2戦車開発にも影響を与える。
[編集] 概要
1960年代はじめ、アメリカではM60パットン戦車に代わる次世代主力戦車の開発に着手し始めた。この計画は当時ソ連軍の主力戦車だったT-62を凌駕し、登場が噂されていたT-64に充分対抗できる戦車を開発する事を目標に、当時考えうる最新の技術を盛り込む物であった。当時、国防長官だったロバート・マクナマラは開発費削減を踏まえ西ドイツとの共同開発を指示、1963年8月1日に同国と正式に開発協定を結び開発をスタートさせた。
当時アメリカ軍の主力戦車は基本的には第二次世界大戦時の戦車からの改良を基本として開発が進められてきた。しかしソ連の戦車に対抗するためにも今までにない最新の技術を盛り込んだ次世代戦車開発の必要性が叫ばれるようになった。当時西ドイツでも独自にレオパルト戦車の開発を進めていたが本格的に生産を開始した時にはソ連のT-62や自動装填装置を装備したT-64の性能を必ずしも上回る物ではなくなっていた。レオパルト1の改良プログラムを進める一方、それとは異なる次世代戦車開発に着手し始めた。こうした次世代戦車開発の必要性で両国は一致、1963年8月1日に開発協定が結ばれ1964年9月から本格的に開発が始まった。
この計画はアメリカではMBT70(MAIN BATTLE TANK70)、西ドイツではKpz.70(Kampfpanzer70)の名称が与えられ、それぞれ7輌ずつ、計14輌の試作車輌が造られる事となったがここから難産が始まる。
[編集] 設計
まずは設計段階において両国がそれぞれの設計デザインを強く主張し対立。その後もアメリカのヤード・ポンド法を使うか西ドイツのメートル法を使うか、主砲のシステムをアメリカ側のガン・ランチャー方式にするか西ドイツが開発した滑腔砲方式にするか、エンジンのシステム、サスペンション、装甲素材など事あるごとに対立し、その都度両方の案をそれぞれ盛り込む妥協策がとられたため日を追うごとに開発費は高騰していった。
本車輌は当時の最新技術が数多く導入された。主な物としては1500 hpの高出力ディーゼルエンジン・射撃統制装置と夜間暗視装置・自動装填装置の採用による乗員の削減・車高を変えられる油圧式サスペンション・軽合金など今日の戦車にも採用されている物であった。
エンジンには、50 t の重量に対して1475 hp の当時としては破格の高出力ディーゼルエンジンを採用。対重量比馬力も29.5 hp/t と今日の戦車でも充分通用する値を記録、最高速度も65 km/hと申し分無かった。アメリカ仕様はコンチネンタル AVCR-1100 4ストロークV型12気筒空冷ディーゼルエンジン、ドイツ仕様はダイムラーベンツ社の同出力のエンジンを搭載、後に1500hpに変更された。車体から15分程度で取り外しができるパワーパック方式が導入された。
油圧式サスペンションは当時車高が低ければ低いほど敵弾の命中率が下がるという思想のもとに導入された。これは1.8mまで車高を下げる事が可能であり、後部だけを上げれば車体を隠した稜線射撃が可能で、反対に下げれば大角度での射撃も可能となった。(本車以前にスウェーデンのStrv.103が、ずっと後に自衛隊の74式戦車も全サスペンションを油圧式としている。)車体自体も背が低く設計され、乗員は操縦手を含め全員砲塔内に収まっていた。操縦席は独立したカプセル状で、進行方向に向けて旋回し、後退時も前進時と代わらない速度で移動できたという。(しかし、この機構は車酔いをおこしやすいものだった)。ところがこういった新機軸を一度に詰め込みすぎた反動か、試験中にアメリカが開発した変速機とサスペンション部のトラブルが多発。Kpz.70に関しては西ドイツ独自で開発した変速機とサスペンションを導入する事となった。
主砲は、当初はアメリカが開発したシレイラ対戦車誘導ミサイルも発射可能なXM150E152mmガン・ランチャーとXM-150自動装填装置を搭載する予定だったが、西ドイツ側は独自に開発した当時では珍しかったラインメタル社製120mm滑腔砲と独自の自動装填システムの搭載を主張。結果各々が主張する主砲を採用した。結局ガン・ランチャーシステムはM60A2やM551に採用されたものの限定的な使用に止まり、今日では120mm滑腔砲が世界の主流となっている。
装甲にはHEAT弾や対戦車ミサイルにある程度対抗出来る中空装甲(スペースドアーマー)を採用した。生存性向上のための工夫として、乗員のいる居住ブロックと弾薬を保管してあるブロックを完全に分離、被弾時に弾薬貯蔵部を切り離すシステムや特殊な防火ドアなど乗員の生存性を高める技術が数多く盛り込まれた。こうした車体全体の誘爆を防ぐシステムは、その後開発されたM1エイブラムスなどにも応用され、弾薬庫の天井部が吹き飛ぶ事により被害を抑えるブローオフパネルとして取り入れられている。
結果、M60と比較して加速度、巡航度、回避能力などほとんどの面で優れていたが、1969年に1輌あたりのコストが100万ドルを超えるという概算が出たため、西ドイツはこのプロジェクトから離脱。以降独自にレオパルト2開発計画をスタートさせた。またアメリカ議会においても延び続ける開発期間と5度にも及ぶ開発費の高騰に批難が集中し1971年11月ついに開発は中止された。以後次世代戦車計画はXM815として再スタートし、のちにXM1、M1エイブラムス戦車の開発へと発展した。