アナバシス
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『アナバシス』は古代ギリシアの軍人・著述家であるクセノポンの著作。アナバシスとは、ギリシア語で「上り」という意味。クセノポンがペルシア王の子キュロスが雇ったギリシア傭兵に参加した時の顛末を記した書物である。
[編集] あらすじ
ペルシア王ダレイオス2世の子であるキュロスと兄アルタクセルクセスの兄弟の関係は、徳川忠長と家光の関係に似ていた。キュロスは、共に育ったペルシア人の子供たちで最も優れており、武技・弓術・馬術に並々ならぬ腕前を示し、鍛錬を怠ることがなく、勇敢であった。長じてからは父から地方の総督に任命されたが、彼が心がけていたのは、嘘をつかないということであった。このため、個人からも友好諸都市からも信頼された。また、自分が窮地にあっても味方を見捨てない、不正を許さない、有能な人物を重く用いるなど、統治者としての才能も示した。このようなキュロスだったが、兄が王位に就きアルタクセルクセス2世となると、反乱を計画していると讒言される。兄はそれを信じてキュロスを殺そうとするが、母の嘆願により、かろうじて思いとどまった。兄弟の母は、兄よりも弟キュロスの方が気に入っていたのである。今後も同じようなことが続くならば、いっそ兄にとってかわりたい。キュロスはそう考えるようになり、ひそかに兵を集め始めた。
このような経緯でキュロスが雇ったギリシア傭兵に、クセノポンは、キュロスと親しかった友人に誘われて参加した。時は紀元前401年。アテナイがペロポネソス戦争で敗れた紀元前404年から3年後のことである。
キュロスの軍はサルディスを出発(紀元前401年3月)。行軍の後、バビロン近郊のクナクサでペルシア王アルタクセルクセス2世の軍と対峙。キュロスは血気に逸って飛び出し、兄に手傷を負わせるも、結局討たれてしまう。このことから、キュロスの軍はあっけなく敗れてしまった(クナクサの戦い(紀元前401年9月))。雇われのギリシア傭兵一万は、給料ももらえず、敵のまっただなかに放り出さることとなった。
とるものもとりあえず、一団となってギリシアに向けて出発する。食料のたくわえもないため、略奪で手に入れるしかない。誇張すれば、武装ホームレスの集団といったところである。行く先々で敵視され、帰路はますますつらいものとなる。路頭にまようギリシア傭兵たちをさらなる困難が襲う。和睦の申しいれを真に受け、丸腰で交渉に出て行った指揮官たちが、護衛の兵ごと惨殺されたのである。ギリシア傭兵たちは、クセノポン他の数名を新たな指揮官として選んだ。クセノポンをはじめとするギリシア傭兵たちは、多大な苦労の後、小アジア北西部ペルガモンにまでたどり着く(紀元前399年3月)。ここまで帰ってきたときには、ギリシア傭兵一万は、五千にまで減っていたという。彼らはここでスパルタに雇われ、就職することができた。アナバシスが終わったのである。