アルダシール1世
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アルダシール1世(Ardashīr ?-241年?)は、サーサーン朝ペルシア帝国の初代皇帝(在位:226年-241年)。アルデシール1世とも。サーサーンの孫に当たる。中期ペルシア語ではアルダフシール 'lthšyl / Ardaχšīr と言い、アラビア語、近世ペルシア語資料では اردشيرArdashīr と表記された。後世のペルシア語文献では اردشير بابكان Ardashīr-i Bābakān と呼ばれているが、これは中期ペルシア語で「パーパグの(子)アルダフシール」を意味する Ardaχšīr Pāpagān の近世ペルシア語形である。
アルダシールの父バーバク(パーパグ)はアルシャク朝パルティア帝国に服属していたいわゆるペルシス王国の君主で、その版図はファールス地方からケルマーン地方まで跨がり、西隣のエリマイス王国やアルメニアを凌ぐパルティア従属下の勢力としては最大の規模を誇っていた。アッバース朝時代の歴史家タバリー(en)によると、アルダシール自身ファールス州の主要都市のひとつイスタフル en:Istakhr(現シーラーズ)の郊外にあったティールーディフで誕生したという。バーバクとその父サーサーンはアルシャク朝末期の混乱で次第に勢力を拡大し、ファールス地方の領主の娘と婚姻し、ついで義父の一族を廃して所領を奪取したと伝えらる。やがてパルティア国王・アルタバヌス4世と対立し、敗死した。
アルダフシールはイスタフルのアナーヒター神殿の高位神官であったが、バーバクの地位を受継いでファールスの王となり、周辺のケルマーン、イスファハーン方面まで勢力を延ばした。ついにアルタバノス4世を224年にスシアナの戦いで破って王国の首都・クテシフォンを陥落させた。そして226年、ペルシア皇帝として即位し、「エーラーンの諸王の王(シャーハーン・シャー)」を名乗った。このとき、祖父のサーサーンの名をとって、サーサーン朝と名づけたのである。その後は226年から233年までローマ帝国と抗争したが、時のローマ皇帝・アレクサンデル・セウェルス帝の前に敗れた。
宗教においてはゾロアスター教を国教と定め、それによって国民の支持を得た。アルデシール1世の後は、子のシャープール1世が継いだ。
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