シャープール1世
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シャープール1世(Shāpūr ?-272年?)は、サーサーン朝ペルシア帝国の皇帝(シャーハーンシャーフ)。初代皇帝・アルダシール1世の子(在位:241年-272年)。中期ペルシア語ではシャー(フ)プフル š'(h)pwhl / Šā(h)puhr 、マニ教文書ではシャー(フ)ブフル š'(h)bwhl / Šā(h)buhr 。アラビア語資料ではサーブール سابور Sābūr 、ペルシア語資料ではシャープール شاپور Shāpūr と表記される。「シャープフル」とは中期ペルシア語で Šāh(王)+puhr (息子)であり「王子」を意味する。
241年、父の後を継いで即位する。対外戦争に尽力し、西方ではローマ帝国と戦って260年、ローマ軍をエデッサの戦いで破って皇帝・ウァレリアヌス帝を捕虜とした。このときの勝利の記念として、ナクシュ・イ・ルスタムの岩壁に馬上のシャープール1世に、ウァレリアヌスが降伏しているレリーフがある。261年にはカッパドキアに進出して勢威を示したが、都市国家であるパルミラの抵抗に遭って大敗してしまい、結局、勢力拡大はユーフラテス川以東までにとどまることとなった。ちなみにこのときに捕らえた捕虜を使って、スシアーナ地方に灌漑用の堤(皇帝堤)を建設している。東方ではクシャーナ朝と交戦して、これを破ってアフガニスタンに進出している。また、ソグドやサカなどの脅威に備えて東方境域フワラーサーン(ホラーサーン)の防衛のため城塞都市「ネーウ・シャープフル」(Nēw Šāpuhr:「善良なるシャープフル」の意味)を建設したと伝えられる。これが後のニーシャープールの前身となった。これらの征服事業によってシャープールは、ナグシェ・ラジャブ(en:Naqsh-e Rajab)碑文や貨幣銘文において父アルダシールの「エーラーンの諸王の王」を超える「エーラーンと非エーラーンの諸王の王」(Šāhān-šāh Ērān ud Anērān)の称号を初めて名乗った。以後これがサーサーン朝歴代君主たちに継承されて行く。
文化面においてはギリシア、インドの医学や天文学、哲学などに深い造詣を示し、その研究と翻訳を進めた。宗教面においては新興宗教のマニ教に深い関心を示し、一時はこれを保護したが、後にゾロアスター教を国教にしてマニ教徒を弾圧している。
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