アンドロニコス・パレオロゴス (テッサロニキ専制公)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アンドロニコス・パレオロゴス(Andronikos Palaiologos, Ανδρόνικος Παλαιολόγος, 1400年-1429年3月4日)は東ローマ帝国皇帝マヌイル2世パレオロゴスと皇后エレニ・ドラガシュ・パレオロギナの第三子、テッサロニキ専制公(1408年9月22日-1423年9月13日)。
恐らく、父マヌイル2世の西欧訪問中にミストラスにて生まれ、アンカラの戦い(1402年)後、両親と共にコンスタンティノポリスに行きそこで幼年時代を過ごす。従兄弟に当たる皇帝ヨアニス7世パレオロゴスの死(1408年9月22日)後、父マヌイル2世によってテッサロニキ専制公に据えられたが、無論当時八歳のアンドロニコスに統治能力は無くその地位は名目的なもので、実質上の権限は別に任命された行政長官が掌握した。1417年頃からアンドロニコスも実務を遂行するようになったようであるが、特に目立った業績はない。
メフメト1世の死去(1421年)に伴うオスマン朝の内紛に介入した東ローマ帝国は新スルタン、ムラト2世の報復を被った。1422年8月にはコンスタンティノポリスが包囲に遭い、翌1423年にはギリシア南部の帝国領、モレアス専制公領が侵攻を受けるという苦境の中で、テッサロニキにもオスマン朝の軍事的圧力が及んできた。アンドロニコスは病弱で統治者としての意志に欠け、この苦境に為す術もなかった。彼は結局、市内有力者との協議の末に市民の信仰の自由、既得権の確認、糧食確保などの条件を付け、市を1423年9月13日にヴェネツィア共和国に売却した。ある記録に拠れば、売却額は50,000ノミスマ=ドゥカートであったという。
この売却譲渡にムラト2世は激怒し(東ローマ帝国はオスマンの臣下であったので、勝手な領土の割譲は許されないという考え方がオスマン側にはあった)、テッサロニキ市は七年間にわたる継続的な包囲下に置かれた。1430年、市は陥落しオスマン朝に併合される事となった。
市を去ったアンドロニコスは兄セオドロス2世パレオロゴスの統治するモレアス専制公領に身を寄せた。その後コンスタンティノポリスに戻り、修道士アカキオスを名乗って修道院にて余生を送った。彼は1429年3月4日に死去し、パントクラトル修道院に葬られた。
彼は少なくとも引退前に結婚し、子供がいた。妻の名前は知られていないが、ヨアニス(ヨハネス)という名の息子が知られている。
(本項目の中世=東ローマ関連の表記は中世ギリシア語のそれに依拠した。古典式慣例表記については各リンク先の項目を参照))