コンスタンティノポリス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
コンスタンティノポリス(ギリシャ語:Κωνσταντινούπολις、ラテン語:Constantinopolis)は、ローマ帝国によって首都として建設された都市で、現在のトルコの都市イスタンブルの前身。
日本では、一般的に英語名 Constantinople の音訳であるコンスタンティノープルの方が良く用いられているが、ラテン語ではコンスタンティノポリス、古典ギリシャ語ではコーンスタンティヌーポリス、中世以降のギリシャ語ではコンスタンディヌポリスである。とくに哲学・思想学の分野でエレニカ(ギリシャ語)文献を翻訳する際などは、なぜか(ギリシャ語ではなくラテン語の)コンスタンティノポリスがもっぱら使用される。ロシア語などのスラヴ系の史料では「皇帝の街」を意味する「ツァーリグラード」という呼び名も使われている。
目次 |
[編集] 概要
コンスタンティノポリスは、330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世(ギリシャ語形ではコンスタンティノス1世)が、古代ギリシアの植民都市ビュザンティオンΒυζαντιον(ラテン語名ビザンティウム Byzantium)の地にローマ帝国の新都として建設し、395年のローマ帝国東西分割後は、東ローマ帝国(ビザンティン帝国・ビザンツ帝国)の首都となった。1453年に東ローマ帝国が滅亡した後はオスマン帝国の首都となり、もっぱらトルコ語によるイスタンブルの名で言及されるようになる。この町が、公式にイスタンブルと改称されるのはトルコ革命後の1930年である。
都市名のコンスタンティノポリスは、「コンスタンティヌスの町」を意味する。コンスタンティヌス帝自身は、この都市をノウァ・ローマ(新ローマ)と名づけ、この名称はキリスト教の宗教会議の公会議においても使用された。
古来よりアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝であり、また天然の良港である金角湾を擁していたことから、1204年に第4回十字軍の攻撃を受けるまでは30万~40万の人口を誇るキリスト教圏最大の都市として繁栄し、「第2のローマ」「都市の女王」「世界の富の3分の2が集まる所」とも呼ばれた。また、東方正教会の首長であるコンスタンティノポリス総主教座が置かれ、東方正教会の中心として、またビザンティン文化の中心として栄えた。都市の守護聖人は聖母マリアである。現在も東方正教会およびアルメニア正教会は、コンスタンティノポリス総主教座をイスタンブルに置いている。
[編集] 歴史
コンスタンティノポリスは長大、強力な城壁の守りによって知られ、東ローマ帝国の長い歴史を通じて攻撃をたびたび跳ね返した。また古代の建造物が残る大都市として、1204年までその偉容を誇った。
[編集] 古代末期の繁栄(4世紀-6世紀)
コンスタンティヌス1世が330年5月11日に開都式を行った時、まだコンスタンティノポリスはローマ帝国の一地方都市の域を出ていなかった。市域もコンスタンティヌスがビュザンティオン時代より大幅に拡大させたが、後代より狭かった。コンスタンティヌスの後継者達もこの街に常住せず、ようやくテオドシウス1世(在位:379-395)の時代になってから皇帝が常住するようになった。
テオドシウス1世の死後、ローマ帝国が東西に分割統治されるようになると東ローマ帝国の首都となった。首都としての実質を伴うようになるにつれて人口は急増、それに伴って現在も残っている難攻不落の「テオドシウス(2世)の城壁」が建設されて市域が大きく広げられた。
ローマ市が、410年の西ゴート人による占領・掠奪以後に急速に衰退していったのに対して、コンスタンティノポリスの人口は増加し、西ローマ帝国が滅亡した476年頃になると東ローマ帝国の人々には「コンスタンティノポリスは第2のローマ」という意識が芽生え、実際ローマに代わる大都市へと成長していった。市内には、宮殿やハギア・ソフィア大聖堂を始めとする教会、大浴場や劇場といった公共施設が数多く作られ、6世紀の皇帝ユスティニアヌス1世(在位:527年-565年)の時代には地中海世界有数の大都市として栄えた。市民にはパンが無料で支給されるいっぽう、競馬場では連日競馬が開催され、市民はそれに熱狂していた。古代ローマにおける「パンとサーカス」はこの時代でも帝国の東方では維持されていたのである。
[編集] 暗黒時代から再興へ(7世紀頃-8世紀頃)
ユスティニアヌス1世の死後、東ローマ帝国は急速に衰退し、領土は縮小していった。7世紀になるとサーサーン朝ペルシャやアヴァール人、イスラム帝国などが次々と首都を包囲した。特に674-678年にはイスラムの海軍に毎年包囲された。この際は秘密兵器ギリシア火薬(一種の火炎放射器)によってイスラム海軍を撃退することに成功したが、皇帝ヘラクレイオス(在位:610年-641年)によってパンの支給は廃止され、相次ぐ戦乱などで市民の人口も激減。水道や大浴場といった公共施設は打ち棄てられ、市内には空き地が目立つようになってしまった。
皇帝レオーン3世(在位:717年-741年)が、718年にイスラム帝国の大遠征軍を撃退し、徐々に東ローマ帝国が国力を回復させていくと、コンスタンティノポリスにも再び活気が戻ってきた。766年には人口増加に対応するために水道が修復された。コンスタンティノポリスは競馬に熱狂していた古代の市民に代わって、絹織物や貴金属工芸などの職人や東西の貿易に従事する商人などが住む商工業都市として甦ったのである。
[編集] 黄金時代
東ローマ帝国が東地中海の大帝国として復活した9-10世紀になると、宮殿や教会・修道院が多数建設され、孤児院や病院のような慈善施設も建てられた。古代ギリシア文化の復活と、それを受けたビザンティン文化の振興も進み(「マケドニア朝ルネサンス」)、コンスタンティノポリスは東地中海の政治・経済・文化・宗教の拠点として、またロシア・ブルガリア・イスラム帝国・イタリア・エジプトなどの各地から多くの商人が訪れる交易都市として繁栄を遂げ、10世紀末から11世紀初頭の東ローマ帝国の全盛時代には人口30-40万人を擁する大都会となった。当時の西ヨーロッパにはこれに匹敵するような都市はなく、コンスタンティノポリスはキリスト教世界最大の都市であった。
[編集] 十字軍による帝都陥落(1070年頃-1204年)
首都の繁栄は11世紀後半になると、帝国がセルジューク朝の攻撃などを受けて弱体化するようになり、いったん衰えるが、11世紀末から12世紀のコムネノス王朝(1081年-1185年)の時代に帝国が再び強国の地位を取り戻すと、国際交易都市として繁栄した。しかし、11世紀以降東地中海に勢力を伸ばしたヴェネチア共和国は、東ローマ帝国と段々対立を深め、1204年の第4回十字軍はヴェネチアの教唆などを受けてコンスタンティノポリスを海から攻撃した。4月13日、コンスタンティノポリスは陥落し、十字軍による暴行・虐殺・掠奪が行われた。
[編集] コンスタンティノポリスの荒廃と終焉(1204年-1453年)
十字軍がコンスタンティノポリスを首都として建てたラテン帝国(1204年-1261年)は存立基盤が弱く、ヴェネチアの海軍力・経済力に頼り切っていた。このためコンスタンティノポリスにあった美術品や宝物は、食糧代などとしてほとんどヴェネチアに持ち去られ、壮麗さを誇った宮殿・教会といった建造物も廃墟と化していった。
1261年7月に東ローマの亡命政権ニカイア帝国は、たまたま守備兵が不在だったのを突いて、コンスタンティノポリスを攻撃、占領した。これによって東ローマ帝国が復活したが、東ローマ帝国の国力も以前に比べて格段に弱くなっており、帝都の大半は荒れるに任された。人口も4-7万に減少し、貿易もヴェネチアやジェノバといったイタリアの都市に握られてしまい、都に富をもたらすことはなかった。14世紀になるとオスマン帝国軍に度々包囲され、東ローマ帝国も首都も風前の灯火となってしまった。
ただ文化だけが最後まで栄え、古代ギリシア文化の研究がさらに進み、ビザンティン文化の中心としての地位を維持した。この文化の繁栄は、当時の皇室の姓(パレオロゴス王朝)を取って「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれ、西欧のルネサンスに非常に大きな影響を与えた。
1453年4月、コンスタンティノポリスは10万のオスマン帝国軍の攻撃を受けた。オスマン側は大型の大砲を用い、艦隊の陸越えによる大規模な攻囲を行なった。
それでも東ローマ側はわずか7千の兵力だったにもかかわらず2ヶ月に渡って抵抗を続けた。しかし1453年5月29日未明、オスマン軍の総攻撃を受け、閂を閉め忘れた城門からオスマン軍が侵入。ついにコンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国は滅亡した。(詳細はコンスタンティノープルの陥落を参照)
[編集] 古代ローマ帝国・東ローマ帝国時代の主な建造物
- ハギア・ソフィア大聖堂(アヤソフィア) - 初期ビザンティン建築の最高傑作。帝国最大の教会で、東ローマ帝国期には総主教座が置かれていた。コンスタンティノポリスの陥落後、モスクに転用され、現在は無宗教の博物館として公開されている。
- ハギア・エイレーネー大聖堂(アギア・イリニ大聖堂) - 初期の総主教座所在地。オスマン帝国期にはトプカプ宮殿の倉庫に転用され、建物としては現存している。
- 聖諸使徒聖堂 - 歴代皇帝の多くが埋葬された教会で、ヴェネツィアの聖マルコ教会のモデルとして知られる。現存せず、跡地にはファーティフ・モスクが建てられている。
- テオドシウスの城壁 - 5世紀の皇帝テオドシウス2世の命によって建設された三重構造の大城壁。難攻不落を誇り、都に攻め寄せた敵を度々撃退した。オスマン帝国期にある程度の修復が行われ、現在も一部が現存している。
- 大宮殿 - 現在のブルー・モスク近辺にあった宮殿。「聖なる宮殿」とも呼ばれた。歴代の東ローマ皇帝が住んだ宮殿で、盛時には絢爛豪華さを誇った。現在では一部の床モザイクが残存し、博物館で展示されているほか、近年では発掘調査が進められている。
- 競馬場(ヒッポドローム) - 首都となる以前、ビュザンティオン時代に建てられたといわれている。大宮殿に隣接しており、宮殿と競馬場の貴賓席は通路で結ばれていた。ここは、競馬(戦車競争)のほか、7世紀頃までは皇帝即位式、それ以降も凱旋式などの国家的行事の会場に使用された。オスマン帝国期にも祝祭のパレードに用いられ、競馬場としての施設は消失したが、競馬場中央に置かれていたオベリスクとデルフィから運ばれた青銅製の蛇の柱が現存している。また青銅製の4頭の馬の像があったが、第4回十字軍の時にヴェネツィアによって掠奪され、いまではヴェネツィアの聖マルコ教会にある。
- ゼウクシッポス浴場 - 競馬場の隣りにあった、古代ローマ式の大浴場。7世紀後半の暗黒時代に打ち棄てられてしまい、後には兵舎や監獄、絹織物の国営工場などに転用されてしまった。
- コーラ修道院 - 東ローマ帝国末期のフレスコ画で有名な教会。のちにモスクに転用され、現在は博物館として公開されている。
- パントクラトール修道院付属教会 - 12世紀建造の教会。モスクに転用され、現存。
- ウァレンス水道橋 - 4世紀のウァレンス帝が建設した古代ローマ時代の水道橋。補修が繰り返されて19世紀まで使われ、現在は遺跡として整備保存されている。
- コンスタンティヌス1世のフォルム(広場)-元老院の議事堂などがあった。現在では、コンスタンティヌスの銅像が乗っていた円柱の一部のみが残っている。
- 地下宮殿 - ハギア・ソフィア大聖堂そばに設けられた地下貯水池。現存。
- ブルケラナエ宮殿 - 市内北東部にあった、12世紀以降の皇帝が主に居住した宮殿。現存しない。
- コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスの宮殿(テクフール・サライ宮殿) - 帝国末期の宮殿。一部遺構が現存している。市内に現存する東ローマ時代の建築物の中で唯一の世俗建築である。
[編集] 参考文献
- 井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』(講談社現代新書)
- 井上浩一・粟生沢猛夫『世界の歴史 第11巻 ビザンツとスラヴ』(中央公論社)
- 尚樹啓太郎『コンスタンティノープルを歩く』(東海大学出版会)
- 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』(東海大学出版会)
- ジョン・フリーリ著 鈴木薫監修 長縄忠訳『イスタンブール 三つの顔をもつ帝都』(NTT出版)
- ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン『コンスタンチノープル征服記―第四回十字軍』(講談社学術文庫)
- スティーヴン・ランシマン『コンスタンティノープル陥落す』(みすず書房)
[編集] コンスタンティノポリスを取り上げた文学作品
- 塩野七生『コンスタンティノープルの陥落』(新潮文庫) - 文学作品のため、一部に創作がある。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Byzantium1200(英語) - 1200年頃のコンスタンティノポリスの建造物をCGで再現している。