イサウリア朝
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イサウリア朝(イサウリアちょう、717年 - 802年)は東ローマ帝国の王朝名。名前の由来は初代のレオーン3世が小アジアのイサウリア出身であったと言われていたことから。近年の研究ではこれは誤りであり、レオーン3世はシリアとキリキア地方の境域部に位置するゲルマニケイア(現マラシュ)の出身であったことが分かっている。このためシリア朝と呼ばれることもある。レオーン3世から始まる5人の皇帝を輩出した。
3代目のレオーン4世が死ぬと幼いコンスタンティノス6世に代わって母のエイレーネーが摂政となった。しかしコンスタンティノス6世が長ずるに従って母子の関係は悪化し、エイレーネーは実の息子の目をくり抜いた上で追放して帝位に就いた。この経緯から彼女は市民の支持を全く得られず、財政政策における失敗も重なって財務長官ニケフォロスによって廃位され、ここにイサウリア朝は断絶した。
[編集] イサウリア朝皇帝一覧
- レオーン3世(Λέων Γ' ο Ίσαυρος)(717年 - 741年)
- コンスタンティノス5世 “コプロニュモス”(Κωνσταντίνος Ε' ο Κοπρώνυμος ή Καβαλίνος)(741年 - 775年)
- レオーン4世 “ハザロス”(Λέων Δ' Χάζαρος)(775年 - 780年)
- コンスタンティノス6世(Κωνσταντίνος ΣΤ')(780年 - 797年)
- エイレーネー(Ειρήνη η Αθηναία)(797年 - 802年) (女帝)
イサウリア朝の血統断絶