エイレーネー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

エイレーネー(ギリシア語:Ειρήνη (Eirēnē))、752年 - 803年8月9日)は、東ローマ帝国イサウリア王朝の第5代皇帝。同王朝第3代皇帝レオーン4世の皇后で、同・第4代皇帝コンスタンティノス6世の生母(在位797年 - 802年)。ローマ帝国史上初の女帝である。東方正教会では聖人。中世ギリシャ語読みでは「イリニ」。
780年、夫レオーン4世が死去したため、その間に生まれたコンスタンティノス6世がわずか11歳の幼少で即位することとなった。しかし11歳の幼帝に政治を取り仕切ることができるはずもなく、エイレーネーが摂政に就任して政治を取り仕切ることとなったのである。
シリア出身のイサウリア王朝の諸帝は聖像破壊運動を推し進めてきたが、かつてのギリシャ文化の中心地アテネ出身のエイレーネーは聖像破壊運動に反対であり、彼女が主宰した787年の第2ニカイア公会議では聖像崇拝の復活を議決した。これによって、後述するように残酷な方法で帝位を簒奪したのにもかかわらず、エイレーネーは教会から聖人に認定されている。
コンスタンティノスが長ずるにつれ、母子の仲は険悪になっていった。いったんはコンスタンティノスが実権を掌握するがブルガリア遠征の失敗などから人望を失い、797年にエイレーネーは軍を動かしてコンスタンティノス6世を捕らえ、何と実の子であるコンスタンティノスの目をくりぬいた上で追放し[1]、自ら女帝として即位した。
このような即位の経緯から、エイレーネーには人望が無かった。このため人望を得るために大幅な減税政策を採用したが、かえってこれが原因で帝国財政の破綻を招いてしまった。
さらにイコン破壊派のテマ長官を廃するなど、イコン破壊派に対して徹底的な弾圧を行なったため、帝国軍の弱体化を招いてしまう。このため、アッバース朝(当時はハールーン・アッ=ラシードの下で全盛期を迎えていた)の小アジア侵攻を許すことになり、帝国領は次第に削られてゆく。
またローマ教皇レオ3世は「コンスタンティノス6世の廃位によって正統なローマ皇帝は絶えた」という解釈をし、800年にフランク王カールを「ローマ皇帝」として戴冠した[2]。これによってローマ帝国の唯一の継承者を自認してきた東ローマ帝国の威信は、大きく傷つけられることになってしまった。
このように失政を続けたエイレーネーは802年、財務長官ニケフォロス1世の宮廷革命によって廃位され、イサウリア朝は断絶した。
注
- ^ ローマ皇帝の即位の条件には「五体満足でなければならない」という不文律があった。このため、二度と帝位に就けないように、失脚した皇帝の目を潰したり、鼻や耳などを削いでしまうという残酷な処罰が行なわれることがあった。
- ^ 古代ローマ時代から女性がローマ皇帝になったことはなく、女帝は西方には認められていなかった。エイレーネーもこれを意識しており、エイレーネーは「バシリサ(英語で言う"empress"、皇后あるいは女帝)」ではなく男性名詞形の「バシレウス(皇帝)」と名乗った。また、カール大帝とエイレーネーの再婚話やカールの娘とコンスタンティノス6世の婚約話もあったが、いずれも実現せずに終わったといわれている。
東ローマ帝国イサウリア王朝 | ||
---|---|---|
先代 |
次代 |