ウガヤフキアエズ王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウガヤフキアエズ王朝は、日本にあったという古代王朝であるが、通常は実在したとは考えられていない。
目次 |
[編集] 概説
『ウエツフミ』『竹内文献』『九鬼文書』などの古史古伝に記載されている神武天皇以前の古代王朝で、ホオリ(火遠理命)の子ウガヤフキアエズ(鵜草葺不合命)が開いた王朝とされる。
ウガヤフキアエズは、『古事記』、『日本書紀』の中では、カムヤマトイハレビコ(神武天皇)の父とされているが、『ウエツフミ』、『『竹内文献』、『九鬼文書』などの中では神武以前に何代か続いた王朝の始祖とされている。しかし、これらの文書の中でも天皇の数や王朝の継続期間は一致していない。そもそもこれらの文書は史料価値が認められておらず、ウガヤフキアエズ王朝とは近代以降に偽作された架空の王朝だとするのが極めて妥当である。
具体的な内容は、『ウエツフミ』『竹内文献』によるウガヤ朝、『富士宮下古文書』によるウガヤ朝、『上代天皇紀』によるウガヤ朝と、大きく三系統にわかれる。『九鬼文書』には、ウガヤ朝についての詳細な記述はない。
本来は「ウガヤ朝」といっていた。『竹内文献』では「不合朝」(あえずちょう)とよび、『富士宮下古文書』では「宇家潤不二合須国世」(うがやふじあわすのくにのよ)などという。
「ウガヤ朝」という言葉を広めたのは吾郷清彦である。昔は、神話にでてくるニニギ・ホホデミ・ウガヤフキアエズの親子三代を、神武朝とか仁徳朝とか天武朝とか桓武朝などのような言葉と同じような意味でニニギ朝・ホホデミ朝・ウガヤフキアエズ朝といい、この三代をあわせて「高千穂三朝」(日向三代)といっていた。はじめ、吾郷清彦はこのようなつもりでウガヤフキアエズ朝を略して「ウガヤ朝」といっていた。これを「ウガヤ王朝」と書いたのは別の歴史本ライターである。
[編集] 『ウエツフミ』・『竹内文献』におけるウガヤ朝
『ウエツフミ』『竹内文献』によれば、ウガヤ朝は72代続いたが、兄弟相続等もあるので世代数でいうと62世代。神武天皇とその兄・五瀬命は第62世代にあたり、五瀬命も即位していて第72代(最終代)にあたる。このうち19人は女帝である。女帝の配偶者は「ヨサキヲ(世幸男)」または「ヤサキヲ(弥幸男)」とよぶ。48代と49代の間に、47代女帝が重祚しているがこれは代数に数えられておらず、摂政あつかいかと思われる。ちなみに皇太女(女性皇太子)の婿は「タトリヲ(手執男)」といい、皇太女が女帝になると「ヤサチヲ」に昇格する。ヤサチとは『ウエツフミ』における年齢階層制での最高位をさす言葉で、女帝の配偶をさす言葉としてはややおかしい。系図上の傍系継承をした場合に、その配偶となる直系女性を女帝と改変している可能性もある。
[編集] 『富士宮下古文書』におけるウガヤ朝
『富士宮下古文書』によれば、ウガヤ朝は51代続いたとするが、五瀬命は皇太子のまま薨去し即位はしてはいないことになっており代数に数えられてない。また歴代すべて男帝であって女帝は存在しない。また歴代すべて単純な父子相続になっているが『富士宮下古文書』では皇統譜にかぎらずすべての系図にこの傾向があり、機械的につなげたにすぎまいと思われる。ウガヤ朝の天皇はすべて「神皇」、皇后は「神后」という用語を使っている。
代数に大きな食い違いがあるように見えるが、『ウエツフミ』『竹内文献』の第2代をとばして、第3代が『富士宮下古文書』の第2代に当たるとして順次ずらしていくと、『富士宮下古文書』の第50代(=『ウエツフミ』『竹内文献』の第51代)までは名前や山陵地や治世中の事件などがよく一致する。なので『ウエツフミ』『竹内文献』の第52代〜第70代が『富士宮下古文書』においては欠落しているらしい。そのあと『富士宮下古文書』の第51代が『ウエツフミ』『竹内文献』の第71代にあたる。ただし、『ウエツフミ』『竹内文献』における女帝はすべて一般の皇后にあたる「神后」に、「ヤサチヲ」は一般の天皇に該当する「神皇」に変更されている。
[編集] 『上代天皇紀』におけるウガヤ朝
『上代天皇紀』のもので、これは代数が全部で72代であるという点が一致しているだけで他の内容(名前や山陵地など)はまったく別である。女帝もわずか数名のみで、これも食い違っている。