上記
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『上記』は、幕末に豊後国(現在の大分県)で発見された古史古伝のひとつである。(『うえつふみ』、『上紀』、『上津文』、「ウエツフミ』とも書き、『大友文献』『大友文書』などともいう。)
1223年(貞応2年)に、源頼朝の庶子で豊後国守護の大友能直が、『新はりの記』や『高千穂宮司家文』等の古文書をもとに編纂したと伝承されている。
内容は、ウガヤフキアエズ王朝に始まる神武天皇以前の歴史や、天文、暦学、医学、農業・漁業・冶金等の産業技術、民話、民俗等についての記事を含む博物誌的なものである。
この文書は、神代文字の一種である豊国文字で記されている。
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[編集] 写本
現存する『上記』の写本には、宗像本系と大友本系との2つの系列がある。(1)宗像本とは豊後国大野郡土師村(現在の大分県豊後大野市大野町)の宗像家に伝えられていた古文書を、国学者幸松葉枝尺(さちまつ はえさか)が筆写したものである。また、(2)大友本とは、豊後国臼杵郡福良村(現在の大分県臼杵市福良)の旧家大友家に伝わっていた写本である。
[編集] 宗像本系
- 19世紀初頭、宗像神社の宮司の一族を称する大野郡土師村の庄屋宗像良蔵が、「神のふみ」として伝わる特殊仮名で書かれた古文書の鑑定を、岡藩を訪れていた京都吉田神学館の玉田永教に依頼したが、偽書と断じられた。
- 良蔵の死後の1831年(天保2年)に、この古文書は府内の国学者幸松葉枝尺の手に渡り、解読が進められた。幸松は、1848年(嘉永元年)に文字を普通仮名に改めた写本を完成するとともに、1872年(明治5年)には原書の特殊仮名のままの写本を完成させた(宗像本)。良蔵の妻の実家に保管されていた原本は、1873年(明治6年)に洪水で流され消失した。宗像本は、現在橋爪家に所蔵されているため、橋爪本とも呼ばれる。
- 1876年(明治7年)、幸松は写本の複写本1部を大分県令を通じて明治政府に献本。教部省において直訳が進められ、1875年(明治8年)に『上記直訳』41冊が完成した。また、内務省も献本を筆写し、『うへ津婦美』41冊を完成させた。このうち3冊は別に筆写され『上記副本』として残された。これら3部は内閣文庫に保管されている
- 1935年(昭和10年)に、神代文化研究会から刊行された『上記』は、野津町の安藤一馬が「宗像本」を書写した「安藤本」を底本とするものである。
[編集] 大友本系
- 1873年(明治6年)に、上記の写本が臼杵の旧家大友家に秘蔵されていることが分かり(大友本)、臼杵藩の国学者春藤倚松が1875年(明治8年)に大友本の臨写(底本に用紙を重ね書写すること)を完成させた(春藤本)。大友本は現在大分県立図書館に保存されている。また、春藤本は2006年に臼杵市に寄贈され、臼杵市登録文化財に指定されている。