ウラジーミル1世
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ウラジーミル(ヴォロディーメル)1世(-いっせい、955年頃 - 1015年7月15日)は、キエフ公国の大公(在位980年頃 - 1015年)。「聖公」と呼ばれる。スヴャトスラフ1世と侍女マルーシャの子。子にはヤロスラフ1世やボリスとグレプがいる。キエフ公国をキリスト教化した。東方正教会とカトリック教会で聖人。祭日は7月15日(7月28日)。東方正教会では亜使徒・聖公ウラジーミルと呼ばれる。
ルーシ年代記によれば、彼の本名はヴォロディーメル(Володимеръ)である。その発音はロシア語の「ウラジーミル」よりウクライナ語の「ヴォロディーメィル」に近い。
[編集] 前半生
父スヴャトスラフ1世存命中からノヴゴロド公に任じられていた。これは、後継者として目されていたためであろう。そして父の死後、長兄ヤロポルクと次兄オレーグが争うと、977年ウラジーミルはスカンディナビアへ逃亡した。980年ノルマン(ヴァリャーグ)人を率いて帰還、ヤロポルクを破り、大公として即位した。その過程で、ポロツクを滅ぼし、公女ログネダを略奪して妻とした。さらに南方や北東地域にも進出してキエフ公国の領土を父の代から倍増させた。モスクワの東に位置するウラジーミルの町やヴォルィニ地方のウラジーミルは彼が建設したとされる。
内政においては、ノルマン系のルス族の植民を奨励する一方で、980年頃、ルーシに伝統的な異教信仰を基盤に据えた国制改革を行ったとされる。伝統的なルーシの異教信仰に近隣諸民族の神を加えた大規模な祭祀を行ったが失敗し、数年後のキリスト教導入を余儀なくされる。
[編集] キリスト教導入後
988年にはキリスト教を国教として導入、加えて東ローマ帝国皇女アンナと結婚し、キエフ公国の権威を上昇させると共に、当時最先端であったビザンツ文化を取り入れるなど、優れた手腕を見せた。
ウラジーミルは12人の息子をキエフ公国の各地に封じた。近隣との関係はおおむね平穏であったが、ペチェネグ人(en:Pechenegs)には悩まされた。アンナの死後、ウラジーミルは再婚した。相手はオットー1世の孫娘のひとりであったとする説がある。
晩年には、息子ヤロスラフ1世と対立し、これを討つための準備中にキエフ近郊のベレストヴォで死去した(1015年)。
ウラジーミルの遺体は、分割され、彼がたてたさまざまな教会に送られて不朽体(聖遺物)として崇敬を受けた。キエフの最も大きな大聖堂のひとつがウラジーミルに捧げられた。ウラジーミルへの崇敬はロシアの伝統となり、キエフ大学の正式名称は、キエフ・ルーシに文明とキリスト教をもたらした人物としてウラジーミルの名称を冠している。ロシアでは聖ウラジーミル勲章が設けられた。ウラジーミルはカトリック教会と東方正教会の双方で聖人となった。
政治・軍事ともに大きな成果を収めたウラジーミル1世の功績は、民族叙事詩である「ブィリーナ」で、また修道士ヤコフ・ムニフの『頌詞』のなかで賞賛されている。彼と共に、東スラブにおけるヴァリャーグ人時代は終わり、キリスト教時代が始まった。
[編集] 関連項目
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