ヤロスラフ1世
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ヤロスラフ1世(Ярослав I Владимирович, 'Мудрый' , 978年頃 - 1054年2月20日)はキエフ大公(在位:1016年 - 1054年)。賢公と呼ばれる。父はウラジーミル1世、母はポロツク公女ログネダ。息子にイジャスラフ1世、スヴャトスラフ2世、フセヴォロド1世がいる。大公に登位する以前にロストフ公、またノヴゴロド公を歴任。
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[編集] 父親の死まで
980年代末に父からロストフに配置される。1010年に長兄ヴィシェスラフが亡くなった後にはノヴゴロド公位に就く。当時ノヴゴロド公には、大公の長男が就くのが慣例であった。その死後にヤロスラフがこの公位についたということは、父親が彼を大公位継承者と考えていたとみなす根拠になる。ところがヤロスラフは1014年に父親のいるキエフに対し税の支払いを拒絶し、このことにより、両者は戦いが避けられない状況に陥った。しかし、遠征の準備中に父ウラジーミルが死去、大公位はヤロスラフの兄スヴャトポルクの手に渡る。
[編集] 兄との戦い、そして大公位獲得へ
[編集] 国内における活動、対外活動
彼の内政面で特記すべきは、『ルースカヤ・プラウダ』(ルーシ法典)の編纂だろう。恐らくはそれまで口述で伝わっていたルーシの慣習法の一部を成文法化した。この法は、補則・改定を受けながら、16世紀頃まで利用されていた形跡がある。
また、彼は現存するキエフのソフィア聖堂を建設した。但し近年の研究では、それ以前に木造のソフィア聖堂が存在していたと考えられている。現在の聖堂は三代目のものであるとされる。
加えて彼の時代、初めてキエフ府主教にルーシ人(イラリオン)が選出された。それまでの府主教は例外なく東ローマ帝国出身のギリシア人聖職者であった。
[編集] 出自
『ルーシ原初年代記』ではヤロスラフの母はポロツクのログネダとされるが、年代の矛盾からこの記述の真偽を疑う意見が少数ながら存在する。ポーランドの史料などではヤロスラフをウラジーミルの正妃で東ローマ帝国皇女アンナの子と主張する意見もあるが、明確な証拠はない。詳しくはウラジーミル1世の家庭生活と子どもたちの項を参照。
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