キラリティー
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
キラリティー (chirality) は、ある分子がその鏡像と結合の組み換えなしには重なり合わないという性質を表す化学用語である。キラリティーを持つ分子をキラルな分子、またはキラル分子と呼ぶ。鏡像が等しい場合、その分子はキラリティーを持たず、アキラル (achiral) であるという。キラル分子は、ちょうど右手と左手のように互いに鏡像である2つの異性体を持ち、これら2つの異性体はエナンチオマー (enantiomer)、対掌体(たいしょうたい)、あるいは鏡像異性体(きょうぞういせいたい)であるという。光学異性体はエナンチオマーなので、両者は同義語として用いられる場面も多い。キラル分子を不斉分子(ふせいぶんし)と呼ぶことも多い。
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[編集] 概要
旋光性は分子の持つ電気双極子の構造が電磁波の偏光面を変えるので、対になるキラル分子は逆の偏光性を示すことが期待される。しかしながら化合物によっては旋光度が小さすぎて観測できず、キラル分子が必ずしも光学活性を持つとは限らない。光学活性なキラル分子のエナンチオマーはそれぞれ大きさが等しく正負が逆の旋光度を持つが、それ以外の物理的性質(密度、融点、沸点、屈折率、熱伝導度など)は全く同じである。またアキラルな分子に対する反応性は全く同じだが、別なキラル分子との反応や、キラルな反応場下での反応(たとえば酵素反応)は反応性が異なる。この性質は有機合成においてエナンチオ選択性や不斉合成に応用される。機能性生体分子のほとんどはエナンチオマーを識別するので(基質選択性を参照のこと)、2つのエナンチオマーの生理活性は非常に異なるのが普通である。
一対のエナンチオマーの絶対配置を区別するにはRS表記法を使うが、アミノ酸や糖では絶対配置既知の化合物から相対的に決定される伝統的なDL表記法も使われる。一対の光学異性体の等量混合はラセミ体と呼ばれ、両エナンチオマーの旋光性がうち消し合ってゼロとなる。
多くのキラル分子は不斉炭素を持つが、不斉炭素の存在はキラルであることの十分条件でも必要条件でもない(後述)。
[編集] 用語に関する注意
- 光学異性体という用語は高校の化学にも出てくるが、物質を分類する方法としてはIUPACでは推奨していない[1]。
- 対掌体の対掌は右手と左手の対を意味している。対称体という訳語が使われた時もあったが現在は誤字とされる。対称体では対称な物体の意味にもなり、むしろアキラルな分子を指すという誤解もされやすい。
- キラル分子を不斉分子と呼ぶこともあるが、不斉という言葉は "asymmetry" の訳語で、厳密には回転対称性もないという意味になるため、キラル分子の方を推奨することが多い。
[編集] 生体分子におけるキラル
アミノ酸や糖など生体分子の多くはキラルであり、原則として片方のエナンチオマーのみが使われている。非常に例外的に逆のエナンチオマーが使われている場合もある。地球上ではアミノ酸ではL体、糖ではD体が主流だか、このようなホモキラリティーが進化のいつの段階で生じたのかは化学進化上の未解決問題のひとつである。
キラル分子を用いた薬は、高いエナンチオマー純度が要求される。たとえば、サリドマイドを考えると、R体は睡眠導入剤や乗り物酔い止めとして有効な薬であるが、S体は催奇性を持っている。しかし、R体・S体を分離する(光学分割)することも可能だが、R体のみを服用しても比較的速やかに体内でS体に変化することがわかっている。このため、R体が催眠作用のみを持ち、S体のみが催奇性だけを現すという当初の一般薬理評価には近年疑問が持たれている(サリドマイドの催奇形性は抗がん剤として利用される国もある。2006年において日本国では、抗がん剤として再審査中である)。
[編集] キラリティーと対称性
キラル | アキラル | |||
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non-Sn | S1 = σ | S2 = i | Sn | |
C1 | ![]() |
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C2 | ![]() |
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Cn |
立体図形の対称操作は全て、n回回転 (Cn) と鏡映 (σ) の組み合わせで表せる。n回回転 (Cn) とはn回の回転で360度回転して元に戻る回転操作で、つまりは360/n度回転させる操作である。従ってC1とは何もしない操作でもある。n回回転 (Cn )と、その軸に垂直な面での鏡映 (σ) を続けて行う操作をn回回映 (Sn) という。従って1回回映 (S1) とは鏡映に他ならない。一点を中心に図形の全ての点を反対側に映す操作を反転といい i で表すが、これは2回回映 (S2) に等しい。
このような対称操作とキラリティーの関係は表のようにまとめられる。キラルとはSn軸を持たないことと同義であり、キラル図形は全く対称性を持たないもの(無対称)とnが2以上のCn軸だけ持つものに分類できる。英語の asymmetry は本来の意味は無対称であるが、誤ってキラルの意味でも使われてきた。現在では混同しないように、ギリシャ語の掌(てのひら)に由来する chirality が使われている。歴史的には、酒石酸のキラリティーを発見したパスツール (L. Pasteur) は1860年に dissymétrie という語を使ったが、英語とドイツ語に翻訳される際に asymmetry と Asymmetrie に変わり、日本語では asymmetry を不斉、dissymmetry を不均斉と翻訳してきた[2]。しかし不均斉という言葉は現在あまり使われておらず、不斉をキラリティーとほぼ同義語に使うことも多い。また『学術用語集 化学編』[3]では asymmetry に無対称という訳語を当てているが[2]、無対称という言葉も化学用語としては現在あまり使われていない。
[編集] キラリティーの源
[編集] 立体幾何学-静的な視点
メタンは4個の水素原子が正四面体の頂点に位置し炭素原子はその中心に位置するテトラヘドラル対称(Td対称)な分子であり、アキラルである。この水素をひとつずつ別の原子で置き換えてゆくと少しずつ対称性が崩れ、4個の原子全てが異なるものになると、無対称でキラルな分子となる。このとき、元はTd対称の中心であった炭素原子を不斉中心 (asymmetric center/asymmetric centre) またはキラル中心 (chiral center, chiral centre) という。このように、本来は対称的なアキラル分子の構造が変化してキラル分子になったと考えたとき、元の対称的分子の対称中心、対称軸、対称面などが変化して非対称な中心・軸・面になったという見方から、不斉中心・不斉軸・不斉面とよび、これらを不斉源と称する。なお、ここでの対称中心は反転対称の中心という意味ではなく、異なる対称軸の交点(不動点となる)という意味で使っている。不斉中心、不斉軸、不斉面を定義することは命名法の上で必要である[4]。
なお、不斉中心・不斉軸・不斉面の定義としては、「点の周りの空間、直線の周りの空間、面の周りの空間を不斉に占有する」ときのそれらの点・直線・面のことともされている[4]。IUPACではキラル中心、キラル軸の定義を「鏡像と重ならないような空間配置になるように、置換基をその周囲に持つ (a set of ligands is held so that it results in a spatial arrangement which is not superposable on its mirror image)」原子および軸としている[1]。
- 不斉中心によるキラリティー: その4つの単結合の置換基が全て異なる炭素原子を不斉炭素と呼び、不斉炭素を持つ分子はキラルになることが多い。例えば不斉炭素の置換基が全てアキラルであれば、この分子はキラルである。不斉炭素の置換基のうち2個が互いに対掌体であれば、この分子はアキラルである。炭素以外の原子でも置換基がほぼ正四面体に結合すれば同じことであり、炭素に限定しない場合は不斉中心と呼ぶ。
- 不斉軸によるキラリティー: アレン (allene) 誘導体、単結合周りの回転が止まったビフェニル誘導体やBINAPのように、対称軸となる原子結合鎖に異なる置換基が結合することでキラルとなった場合に、この軸を不斉軸という。これらの分子には不斉中心はないがキラルである。XYC=C=CXYのような分子は不斉軸の周りのらせんによるキラリティーだとも言える。
- 不斉面によるキラリティー: 1つのベンゼン環の2個の炭素を原子鎖で結合したシクロファンや2個のヘキサペンタジエニルアニオンが鉄(II)に配位したフェロセンの誘導体では不斉中心がないのにキラルなものがある。これらはベンゼン環平面への置換によりキラルとなったとして、ベンゼン環平面を不斉面と定義する。trans-シクロオクテンもエナンチオマーが単離でき、その二重結合と隣接原子を含む平面が不斉面となる[4]。これらは不斉面に垂直ならせん軸によるキラリティーとも言える。
- らせん軸によるキラリティー: ヘリセンには不斉中心も不斉軸も不斉面もないがキラルであり、ヘリシティーが右ねじと左ねじのエナンチオマーを持つ。
[編集] 結合軸回転—動的な視点
通常の分子では単結合は自由回転できるので多くの立体配座(コンホメーション)を取りえ、これらの立体配座間で常に変化している。従って、分子Rのコンホメーションのどれかと分子Lのコンホメーションのどれかとが鏡像ならば、分子Rと分子Lは互いに対掌体である。だが高い立体障壁などにより自由回転が抑制されると、異なる立体配座を持つ分子が配座異性体または回転異性体、アトロープ異性体として分離される。そして互いに鏡像である配座異性体同士は互いにエナンチオマーとなる。
前述のビフェニル誘導体やBINAPは芳香環を結ぶ単結合の周りの回転が抑制されたためにエナンチオマーが生じたのであり、アトロープ異性体でもある。またシクロファンなどの面不斉化合物も、不斉面となるベンゼン環に結合する単結合周りの回転が抑制されたためのアトロープ異性体でもある。
[編集] 参考文献
- ^ a b IUPAC Recommendations 1996; Basic Terminology of Stereochemistry. (外部リンク参照)
- ^ a b 日本化学会編 『標準化学用語辞典』 第2版、丸善、2005年、「不均斉」の項。ISBN 4-621-07531-4.
- ^ 文部省・日本化学会編 『学術用語集 化学編』 増訂2版、南江堂、1986年。ISBN 4524408215.
- ^ a b c 大木道則 『立体化学』 第4版、東京化学同人、2002年。ISBN 4-8079-0550-3.