ギーズ公アンリ
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ギーズ公アンリ(Henri Ier de Guise, 1550年1月31日? - 1588年12月23日)は16世紀フランスの貴族、ユグノー戦争期のカトリック派の中心人物、カトリック同盟のリーダー。
ギーズ家はカトリックの中心勢力として、国内の改革派(プロテスタント)を弾圧していた。ユグノー戦争が始まり、父フランソワが暗殺(1563年)された後、アンリはギーズ家を継ぎ、軍人として活躍した。父を暗殺したプロテスタント側のコリニー提督への憎しみを募らせていた。
1572年8月、プロテスタントのナヴァル王アンリの結婚式出席のため、パリに多数のプロテスタント派貴族が集まった。ギーズ公アンリの軍隊は、コリニー提督はじめプロテスタント派貴族を襲って虐殺した(サン・バルテルミの虐殺)。指令を出したのはシャルル9世の摂政カトリーヌ・ド・メディシスとも言われる。このときナヴァル王アンリは宮廷に監禁され、カトリックへの改宗を強要された。
しばらくの間、ギーズ公アンリとカトリーヌを中心に政治が展開していたが、ナヴァル王アンリは宮廷を脱出してプロテスタントに再改宗した。1576年、アンリ3世がプロテスタントと結んだボーリューの和議は、プロテスタントに有利であったため、カトリックの間に不満が高まった。同年、カトリック同盟が結成され、ギーズ公はその中心となった。
1585年以降は、国王のアンリ3世、カトリック同盟のギーズ公アンリ、プロテスタント派のナヴァル王アンリが王位を巡って争う状況となった(三アンリの戦い)。 正統な王位継承者はナヴァル王であったが、プロテスタントであったため、カトリック同盟は反発しており、ギーズ公アンリも王位を窺っていた。 1588年5月、ギーズ公がパリに入ると、アンリ3世はパリを脱出。アンリ3世とナヴァル王は、カトリック同盟に対抗して提携した。