グアムの戦い
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グアムの戦い | |
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戦争: 太平洋戦争 | |
年月日: 1944年7月21日~8月10日 | |
場所: マリアナ諸島グアム島 | |
結果: 米国の勝利 | |
交戦勢力 | |
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指揮官 | |
高品彪中将 | ロイ・ガイガー中将 |
戦力 | |
18,500人 | 2個師団、55,000人 |
損害 | |
死者18,000人、負傷者485人 | 死者3,000人、負傷者7,122人 |
グアムの戦い(グアムのたたかい)は太平洋戦争におけるマリアナ-パラオ戦役の戦いの一つ。サイパンの戦いに次ぐ死傷者を出した。グアム島はマリアナ諸島中の島で、大戦開始前には米国の支配下にあったが1941年12月10日に日本軍の攻撃によって奪われていた。飛行場を有し、絶対国防圏内の要所であり、米軍の進行に伴い攻撃目標となることが予測されたため、1944年には帝国陸軍の第29師団及び第49独立混成旅団が派遣された。米軍はこれを奪還すべく第77歩兵師団と第3海兵師団を派遣した。
米軍のサイパン島来寇時にパラオへ出張中で、サイパン島へ帰れなくなっていた第31軍司令官小畑秀良中将は、グアムで指揮をとっていた。サイパン島の玉砕により第31軍司令部が壊滅すると、第31軍司令部はグアムで再編成され、サイパンで戦死した井桁参謀長の後任として、中部太平洋方面艦隊参謀副長として海軍との調整役に当たっていた田村義冨少将が任命された。
米軍は先ず戦艦による艦砲射撃と空母艦載機及び陸上爆撃機(B-29)による爆撃を行った。予定では6月18日には部隊を上陸させるはずであったが、帝国陸軍は頑強な抵抗を繰り返した。高射砲及び巡洋艦から取り外した高角砲によって迫り来る航空機を執拗に攻撃したり、マリアナ沖海戦などによって計画は大幅に遅延した。それでも7月21日には米軍は上陸を開始している。帝国陸軍はサイパン同様水際で敵軍の進行を食い止めようと上陸してくる敵軍を重火器で攻撃した。20両のLVT(水陸両用装軌車)を破壊したが、それでも迫り来る米軍の進行を食い止めることはできなかった。
帝国陸軍は最初の数日間に攻撃を集約し、水際で進行を食い止めようとした。7月28日には師団長の高品彪中将が戦死。師団の指揮は小畑軍司令官が師団長代理として直卒したが、この戦いにおける組織的抵抗は収束した。それ以降も帝国陸軍の残存部隊は抵抗を続けたものの、8月11日に小畑軍司令官と田村参謀長が自決、米陸軍は北部に達し、島の完全占領を成し遂げた。それでも一部の生き残った兵士は抵抗をした。全ての兵士が完全に戦闘意欲を喪失したのは、1972年(昭和47年)に横井庄一伍長が投降したときである。アメリカは本島をサイパン島等とともに戦略爆撃の拠点とした。
マリアナ・パラオ諸島の戦い |
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