グランビル・シャープ
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グランビル・シャープ(Granville Sharp, 1753年11月10日 - 1813年7月7日)は、学者及び博愛主義の奴隷廃止運動の指導者である。
[編集] 来歴
- 1735年11月10日に副司教のジョン・シャープ(ヨーク大司教トーマス・シャープの息子)の息子として、イギリスのダラムで生まれた。シャープは14人兄弟の1人である。中等学校で教育を受けていたが1753年に15歳でロンドン服地商の徒弟になった。
- 1765年からシャープは奴隷廃止運動に活発に関わる事になる。シャープの兄弟ウィリアムはロンドンで貧しい人々に無料で処置を与えていたい医者だった。彼の兄弟を訪ねている間、シャープはデビット・ライルと言う主人に酷く、叩かれた、ジョナサン・ストロングと言う奴隷の黒人青年と出会う。シャープはこの黒人青年を助けセント・バーソロミュー病院へ連れて行た。ストロングの怪我が治るまで4ヶ月を費やさなければならなかった。
- ストロングはシャープ方法ライルを話して、バルバドスからイギリスに彼を連れて来た。ライルはストロングのサービスに不満を抱きピストルで彼を叩いた後、彼を通路に放り投げた。ストロングが怪我から回復した後、デビット・ライルは彼を再逮捕する2人の男に支払った。
- シャープが情報を知った時、彼はライルをストロングがイギリスにいたので、ストロングがもはや奴隷でなかったと主張している法廷に連れて行った。
- しかし、法廷がストロングの好意で裁決した事は1768年までなかった。ケースは国家広告を受けた。そして、シャープは奴隷廃止に反対する彼の運動でこれを使う事が出来た。最後にそれが彼がイギリスに足を踏み入れる時、奴隷が自由になるトーマス・ルイスやジェームズ・サマーセットの場合が置かれた。グランビル・シャープは同様に他の問題に関する、急進的で政治的な意見を持っていた。彼は議会改革に賛成し、そして、低い賃金の莫大な労働者を飼育するために支払った。そして、またシャープもアメリカの入植者をイギリス政府に対して支持をして、その結果、1776年に行政事務を退職しなければならなり、同年に4冊の奴隷制度反対のパンフレットを出版した。*1780年代中頃になると、シャープは最終的に西アフリカのシエラレオネへの移住計画の支持者のリーダーであるシエラリオーナとなった。
- 1780年代の初期にアメリカ独立戦争でイギリスのために戦った元奴隷の自由を授与される、ロンドンと彼らが約束された賃金に来たので、ロンドンの貧しい黒人達の数が増大していた。これらの元奴隷の黒人達をシエラレオネに新しく入植及び移住させるため、1786年にシャープは友人であるトーマス・クラークソンを始めウィリアム・ウィルバーフォースらにより奴隷貿易廃止促進協会が創立され、1787年にシャープを中心とした「自由の国」をスローガンとしたシエラレオネの入植計画が始まり、887人の入植者(ほとんど黒人)がシエラレオネに入植した。最初のシエラレオネの入植地に彼の名グランビル・シャープに因み、グランビルタウンを建設した。しかし、このシャープらによるシエラレオネ入植計画は当初、成功出来ず失敗した。ヨーロッパ諸国の軍や現地部族による攻撃、侵略やマラリヤなどによる病気などにより、1791年まで入植者のほとんどは死に絶え、生き残ったのはわずか60人だけであったのである。
- 1813年7月7日ロンドンの南西にあるフルハムでシャープは死んだ。彼は、フルハムの教会の墓地に埋葬されている。ほか、ウェストミンスター寺院に、彼の記念が立てられている。