奴隷
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奴隷(どれい)とは、ヒトでありながら所有の客体となる者、またはその階層や階級をいう。
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[編集] 概説
風土・慣習・伝統の違いによる地域差はあるものの、有史以来、人が人を所有するという奴隷制度は世界中どこにでも見られた。古代のある時期、奴隷が社会の主な労働力となっている体制を奴隷制と呼ぶ。この奴隷制は、唯物史観の発展段階論に於いて、原始共産制以降から発展し封建制へと繋がる段階とされた。奴隷は、農業・荷役・家事などの重労働に従事することが多かった。
産業革命が達成された西洋諸国に於いては、工場の労働力として奴隷的労働がなされた。製品の購買層が富裕層や海外であった時期はそれで良かったが、売上増にはプロレタリア階級も購買層となる必要があり、賃金労働が進んだ。賃金労働者の増加は国内市場拡大に繋がるため、収入のない奴隷の存在は経済の足かせとなった。また、産業発展が続くと労働力不足が起き、農地に縛られた奴隷を工業地域に移動させ、工場労働者とさせることが必要になり、奴隷制廃止圧力となった。そのため、天賦人権説を利用・流布することで、各国の中でその国の国民については奴隷制度が廃止され、賃金労働者への転換が進められた。しかし、国外については、商品購買層ではない人々(他人種)に対し奴隷貿易が続けられた。ただし、新大陸においては、移民の賃金労働者が奴隷よりも安価な労働力となり、労働力不足も発生していたため、奴隷解放をして安価な賃金労働者に再編された。
現代社会では、人の所有や売買は国際条約や法律で禁止されている。しかし、工業化の進んでいない発展途上国では賃金労働が進んでいないため、商品経済に飲み込まれながらもその対価が払えない貧困層が絶えず生まれ続け、それを供給源とする奴隷売買が公然と行われている地域がある。また、先進国・発展途上国の別によらず、貧困層や借金によって困窮した者に対し、暴力等によって拘束して売買し、性産業に従事させる犯罪が後を絶たず、非合法の奴隷とみなされる(→性的奴隷)。世界には今でも2700万人もの奴隷がいると言われている。
[編集] 日本の奴隷制
一説には、すでに縄文時代において奴隷制が存在していたとされるが、歴史文書に初めて登場するのは弥生時代であり、『後漢書』の東夷伝に、「倭国王・帥升が、生口(奴隷)160人を安帝へ献上した」(西暦107年)という趣旨の記録がある。また、いわゆる魏志倭人伝にも、邪馬台国の女王・卑弥呼が婢を千人侍らせ、西暦239年以降、魏王へと生口を幾度か献上した旨の記述がある(ただし、「生口」を奴隷の意味ではないと解釈する説もある)。
古墳時代に入ると、ヤマト王権によって部民制(べみんせい)が敷かれ、子代部(こしろのべ)、名代部(なしろのべ)、部曲(かきべ)などの私有民もしくは官有民が設けられた。部民制は、飛鳥時代の大化の改新によって、中国の唐帝国を模した律令制が導入されるまで続いた。日本の律令制度では、人口のおよそ5%弱が五色の賤とされ、いずれも官有または私有の財産とされた。そのうち、公奴婢(くぬひ)と私奴婢(しぬひ)は売買の対象とされた。この二つの奴婢身分は、公地公民の律令制度の解体と、荘園の拡大にともない、平安時代前期から中期にかけて事実上消滅していった。907年の延喜格で正式に廃止されたとされる。五色の賎は、良民との結婚などに制限があったが、良民と同等または3分の1の口分田が班給されていた。
平安時代後期に、日本が中世へと以降すると、社会秩序の崩壊にしたがって人身売買が増加し、「勾引」(こういん)や「子取り」と称する略取も横行した。また、貨幣経済の発展に伴って、人身を担保とする融資も行われた。こうして、様々な事情で自由を失った人々が下人となり、主人に所有され、売買の対象になった。有名な『安寿と厨子王(山椒大夫)』の物語は、この時代を舞台としている。このように、中世には人身売買が産業として定着し、略取した人間を売る行為は「人売り」、仲買人は「人商人」(ひとあきびと)や「売買仲人」と呼ばれた。また、奴隷が主人から逃亡することは財産権の侵害と見なされ、これも「人勾引」と称された。
鎌倉時代には、元帝国と高麗の連合軍が壱岐・対馬と九州北部に侵攻し(元寇)、文永の役では、捕らえられた日本人の婦女子およそ200人が、高麗王に奴隷として献上された。国内においては、鎌倉幕府や朝廷は、人身売買や勾引行為に対して、顔面に焼印を押す拷問刑を課したこともあった。しかし、14世紀以降、勾引は盗犯に準ずる扱いとされ、奴隷の所有は黙認された。南北朝時代として知られる内戦期になると、中央の統制が弱まって軍閥化した前期倭寇が、朝鮮や中国で奴隷狩りを行った。
いわゆる戦国時代には、戦闘に伴って「人取り」と呼ばれる略取が盛んに行われており、日本人奴隷は、主にポルトガル商人を通して世界中に輸出された(当時の日本の主要な輸出品の一つは奴隷であった)。関白の豊臣秀吉は、バテレン追放令でこれを禁じた。反対に、文禄・慶長の役では、数万の朝鮮人が日本へと略取され、大半はやはりポルトガル商人へと売却された。また、他には、ヤスケという名のアフリカ系奴隷が、戦国大名の織田信長に宣教師から献上され、家来として仕えたとの記録が残っている。
江戸時代に勾引は死罪とされ、奴隷身分も廃止されたが、年貢を上納するための娘の身売りは認められた。「人買」(ひとかい)は、こうした遊女の売買を行う女衒を指す語として、この時代に一般化したものである。また、前借金による児童や青少年の奴隷労働(年季奉公)も広く行われた。これらの奴隷的拘束は、明治維新による近代化の後も形を変えて根強く残った。ただし、1872年のマリア・ルーズ号事件をきっかけに、ときの司法卿・江藤新平によって、芸娼妓解放令が太政官布告として発せられ、このような人身売買は法的には禁じられた。また、それより以前の1870年には、外国人への児童の売却を禁ずる太政官弁官布告が出された。
明治時代以降は、地租改正によって、税負担に耐えられない多くの農民は、寄生地主へ高額の小作料を支払う小作人へと転落し、実質的な農奴となった。また、島原・天草を中心とする地域から、日本女性の海外への「輸出」が大規模に発生した(からゆきさん)。これは、太平洋戦争(大東亜戦争)の勃発によって、日本人の海外への渡航が制限されるまで続いた。
太平洋戦争中には、日本軍が国際法に反して、連合軍捕虜を強制労働に利用し、劣悪な環境から多数の死傷者を出した。ピエール・ブールの『戦場にかける橋』は、このときの実体験をもとに書かれた小説である。
終戦後、連合国軍総司令部は、日本における奴隷階級の解放を宣言していたが、日本政府が日本には奴隷階級はないと反論した。しかし、新憲法に基づく児童福祉法や売春防止法、農地解放などによって、日本から人身売買や奴隷労働がほぼ一掃されたのは、戦後のことである。また、同じく戦後、ソ連軍の捕虜となった百万人以上の日本兵らがシベリアなどに連行され、強制労働に従事させられた(シベリア抑留)。うち3分の1前後が死亡したとされる。
戦後の日本においても、借金を返済できなかった者がマグロ漁船やソープランドなどで強制労働させられた例は、少なからず存在すると言われる。現在でも、数千から数万の外国人女性が主に騙されて日本へ連れて来られ、多額の借金を負わされた上で、売春を強制されている。このことは、米国務省や海外のNGOなどから強く非難されている。また、数万の外国人が、外国人研修制度の名の下に、最低賃金を下回る低賃金と奴隷的拘束、中間搾取を強いられている。今日、こうした奴隷的労働は、労働法制の改定によって、日本人労働者も含めて全体的に増加の傾向にあるとされる。
[編集] 日本国外の奴隷制
- 古代ギリシャ・古代ローマ市民は原則として生産活動に従事せず、奴隷の労働の上で社会生活を営んだ。特に上流階級が都市生活を営むには奴隷は欠かせないものであった。奴隷は階級として固定されたものではなく、生活困窮者や捕虜が奴隷の身分に落とされ、後に解放されて自由人の仲間入りを果たすこともあった(解放奴隷)。当時の奴隷は市民や国家の財産として扱われ、哲人アリストテレスは、「奴隷は肉体によって所有者に奉仕する」と定義し、奴隷の存在を肯定した。有名なところではアイソポス(イソップ)も、古代ギリシアにおいて奴隷だったと伝えられる。
- 古代ギリシャの都市国家スパルタのように、征服民族が被征服民を奴隷身分に落とす場合、奴隷に対する過酷な弾圧と階級の絶対的固定化・階級間の通婚禁止などの政策を通じて支配の安定化を図った。
- 古代ローマのローマ法を継承した東ローマ帝国の『ローマ法大全』など中世ヨーロッパの法律では、「奴隷は自然法には反しているが、捕虜(や破産者)の生命が奪われるのを防ぐために定められた万民法の規定である」と解釈され、むしろ人道的であるとする考えすらあった。
- インドのヒンドゥー教のカースト制度で、スードラを奴隷と訳すことがある。所有・売買の対象という意味では奴隷の定義から外れるが、他のカーストの下におかれたことから奴隷の名があてられる。
- 15世紀から19世紀にかけて、アフリカ諸地域から輸出された黒人奴隷は、主に南北アメリカ大陸で、プランテーション農業などの経済活動に、無償で従事させられた。アメリカ合衆国では、南北戦争の時代にリンカーン大統領によって、奴隷制度が廃止されたが、大半の黒人は1971年まで、「選挙権はあるが投票権がない」状態だったなど、政治的な権利の制限は長く続いた(公民権運動、外部リンク参照)。ただし、これは黒人解放運動のリーダー達が、摩擦を招きやすい政治的要求は避け、まずは教育の機会確保と経済的地位を確保することを優先する方針だったためでもある。
- 中国に於いては殷は戦争奴隷を労働力・軍事力として利用していたとされ、中国に於ける奴隷制の時代とされる。その後の時代でも基本的に奴隷は存在しており、戦国時代などには捕虜が奴隷にされる場合がしばしば存在した。前漢の衛青は奴隷の身分から大将軍まで上り詰めた。
- タイの歴史上では、タートと呼ばれる自由を拘束された身分があった。そのほとんどが、未切足タートと呼ばれる、少額の負債を負った者が債権者に労働などで負債を返済する形式の者であり、すべてがいわゆる奴隷的な身分というわけではなかった。しかし、一部には切足タートと呼ばれる多額の負債を負って奴隷身分となった者や、捕虜タートと言われる奴隷があり、これらは自由身分への復帰が非常に困難とされた。チャックリー王朝に入ってからラーマ1世によってこの切足タートや捕虜タートにも自由身分へ回復する事が制度的に可能になった。のちに、ラーマ5世のチャックリー改革によってタートの制度は廃止された。