グルジア民主主義共和国
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グルジア民主主義共和国(グルジア語:საქართველოს დემოკრატიული რესპუბლიკა)とは、1918年から1921年にかけてグルジアに存在した国家。ザカフカース民主主義連邦共和国の崩壊にともない、メンシェヴィキを中心として独立を果たしたが、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の赤軍に首都チフリスをおとされて崩壊した。
[編集] 歴史
ザカフカース民主主義連邦共和国の崩壊後、1918年5月26日、グルジア国民会議によりグルジア民主主義共和国が宣言された。当初の政府は、メンシェヴィキ(N.ラミシュヴィリ議長、エフゲニー・ゲゲチコリ、ノイ・ジョルダニヤ、アカーキー・チヘンケリ、イラクリー・ツェレテリ等)、連邦社会主義者、民族民主主義者の連合政権だったが、後に国民会議は議会に改称され、メンシェヴィキのみとなった(ジョルダニヤ議長)。1918年5月からドイツ軍がグルジアに進駐し、グルジア政府はドイツ軍の助けを得てドゥシェチでの反乱を鎮圧した。6月4日、トルコと条約を結び、アドジャリア等一部の領土がトルコに譲渡された。1918年7月、グルジア軍は、クバノ・黒海ソビエト共和国領内に侵攻した。
ドイツ降伏後、ドイツ軍は撤収した。1918年12月から三国協商国のザカフカース干渉が始まった。1919年3月から議会の役割は、建国会議(定員130人の内、メンシェヴィキが109人。ニコライ・チヘイゼ議長)が執行した。グルジア政府の下では、産業・貿易は従来のままで、農地改革は立憲民主党(カデット党)のプログラムを切り詰めたものだった。また、グルジア領内に居住する他の民族には、民族自決権も、母国語で教育を受ける権利も認められなかった。ロシア内戦中、グルジア政府は、白軍を援助し、デニーキン軍撃破後、彼らに隠れ家を提供した。
1919年10月~11月、グルジアの各地で武装蜂起が始まったが鎮圧された。国内外情勢の悪化により、グルジア政府は、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国と平和条約を締結せざるを得ず(1920年5月7日)、白軍と手を切り、外国軍を追い出し、ボリシェヴィキを合法化することが義務付けられた。セルゲイ・キーロフが全権代表に任命され、1920年5月、グルジア共産党(ボリシェヴィキ党)が創設された(党員約2万人)。ボリシェヴィキは、地下活動から表に出、政府打倒を準備した。1921年2月11日、蜂起が始まり、ボリシェヴィキはロシア政府に援助を要請した。2月25日、赤軍の支援の下、グルジア革命会議が首都チフリスを支配下に置いた。グルジア政府はバトゥーミに移ったが、3月17日に国軍が降伏し、3月18日には政府自体が国外に亡命した。