グルジア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
- グルジア
- საქართველო
-
(国旗) 国章 - 国の標語 : ძალა ერთობაშია
(グルジア語:力を一つに) - 国歌 : 自由
-
公用語 グルジア語 首都 トビリシ 最大の都市 トビリシ 大統領 ミヘイル・サアカシュヴィリ 首相 ズラブ・ノガイデリ 面積
- 総計
- 水面積率世界第118位
69,700km²
極僅か人口
- 総計(2004年)
- 人口密度世界第113位
4,693,892人
67人/km²GDP(自国通貨表示)
- 合計(Xxxx年)
xxx,xxxラリ(YTL)GDP(MER)
- 合計(Xxxx年)世界第xx位
xxx,xxxドルGDP(PPP)
- 合計(2003年)
- 1人当り世界第120位
121億8,000万ドル
2,500ドル独立
- 日付ソビエト連邦より
1991年4月9日通貨 ラリ(YTL)(GEL) 時間帯 UTC +4(DST: なし) ccTLD GE 国際電話番号 995
グルジアは、西アジア北端、南カフカス地方に位置する共和国。旧ソビエト連邦の構成国のひとつで、1991年に独立した。首都はトビリシ。ヨーロッパに含められることもある。
カフカス山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。北側にロシア、南側にトルコ・アルメニア・アゼルバイジャンと隣接する。
目次 |
[編集] 国名
公式の英語表記は、Georgia、日本語の表記は、グルジア。
1995年以来、正式名称・通称は同じである。独立直前の1990年から1995年までは「グルジア共和国」を正式な国名としていた。
グルジア語では、საქართველო(ラテン文字転写 : Sakartvelo)という。サカルトヴェロは、「カルトヴェリ人(グルジア人)の国」という意味で、カルトヴェリは古代ギリシャ人の記録にもあらわれる古代からの民族名カルトゥリから来ている。
日本語名の「グルジア」はロシア語名Грузияにもとづき、英語名のGeorgiaと同じく、キリスト教国であるグルジアの守護聖人、聖ゲオルギウスの名に由来すると言われる。
[編集] 歴史
この地は、紀元前6世紀にはオリエントを統一したアケメネス朝ペルシャの一部となった。その後、紀元前1世紀にローマの支配に入った。グルジアの歴史は、主に西グルジアと東グルジアに分けられる。グルジア史は、大まかに分けると、ローマ時代以前は、主に西グルジアにあるコルキス王国(Egrisi王国)が栄えていた。ローマ支配紀頃から東グルジアにカルトリ王国(イベリア王国とも言われた)が勃興し、しばらくカルトリがグルジア史の主役となる。
4-6世紀にキリスト教に改宗。6世紀頃に、この頃ラジカ王国として知られていた古代コルキス王国は、(この間ずっとEgrisi王国が正式名らしい)はビザンツ治下に、カルトリ王国はペルシャ支配下となる。その後、グルジアはアラブ支配下に入る。ラジカ王国は、9世紀にアブハジア人を主体としてアブハジア王国として独立した。イベリア王国は、同じく9世紀に、アショト・バグラトゥニによりアラブより解放された。1089年頃グルジアが統一され王国となるが、後ビザンツ帝国の属国になる。長い間ビザンツ帝国の一部であり、文化的にもその影響が大きい。その後、オスマン帝国・ペルシア・ロシアなどの支配を経て、ロシア革命後の1918年5月26日にロシアからの独立宣言。その後ソビエト連邦に加盟。1936年、ソ連邦構成共和国に昇格した。
1991年、ソ連邦の解体により、グルジア共和国として独立した。スターリンの出身地。1992年から2003年まで、エドゥアルド・シェワルナゼが最高権力者であった。
2003年11月2日の議会選挙の開票には出口調査などによって不正の疑惑が指摘されており、既にアメリカが非難を表明していたが、11月22日になって、選挙に基く新しい議会が召集された。これに対し、反対派の議員はボイコットした。議会前には25000人の反対派市民が集結していたが、開会の辞を読み上げられる最中、これらの市民は議場に乱入した。シェワルナゼ大統領は議会から逃げ、11月23日には大統領を辞任した。代って、野党「ブルジャナゼ・民主主義者」の党首であるニノ・ブルジャナゼが暫定大統領に就任した。ブルジャナゼ暫定大統領は、従来の閣僚(ナルチェマシュヴィリ内相・ジョルベナゼ国務相・ゴジャシュヴィリ財務相・メナガリシュヴィリ外相など)を一掃した。
旧野党勢力は、2004年1月4日に行われた大統領選挙では、野党「国民運動」のミヘイル・サアカシュヴィリ党首を統一候補として擁立した。しかし、「労働党」のナテラシュヴィリ党首が議会選挙のやり直しに反対し、「伝統主義者連盟」が離脱を表明するなどの動きもあった。ロシアを後盾にアジャリア自治共和国を事実上中央政府から独立して支配してきたアスラン・アバシゼ最高会議議長が非常事態宣言を発令し、暫定政権に反対するなどの動きを見せた。結局、大統領選挙の結果はミヘイル・サアカシュヴィリの圧勝に終わり、これに反対する野党勢力も一転して選挙結果を受け入れた為、一連の混乱も収拾した。
3月28日に議会再選挙が行われた。結果は、国民運動が得票率75%で大多数の議席を獲得し最大与党に躍進した。一方、その他に議席獲得に必要な7%の得票率を超えられたのは新右派と産業党が連合して結成された右派野党だけであった。今回の選挙は独立後のグルジアで最も自由な選挙のうちの1つだったと考えられる。
しかし、アバシゼ議長はこれらの選挙結果を依然として認めず、アジャリア自治共和国との交通路を封鎖するなどの措置を取り、中央政府との関係は一触即発の状態となった。3月18日にはアバシゼ議長とサアカシュヴィリ大統領との会見が行われ、一時は事態が収拾するかと思われたが、アジャリア側が4月末より橋を爆破するなどの措置に出てきたため、中央政府は国境や港湾を封鎖するなど圧力を加えた。更にアジャリアの首都バトゥミでは大統領支持派による議長退陣要求デモが1万数千人規模にまで膨れ上がり、ますます緊迫した状況となった。5月5日にはロシアのセルゲイ・イワノフ国防相がアバシゼ議長と会見し、辞任を勧告した。これにより議長は同日中に辞任しロシアに出国した。また、中央政府はアジャリアに大統領直轄統治を導入し、アバシゼ議長の元で続いてきた事実上の独立状態は終わった。
[編集] 年譜
- 4世紀 キリスト教を国教化
- 6世紀~10世紀 ササン朝ペルシア帝国、ビザンチン帝国、イスラム帝国(アラブ人)の支配下となる
- 11世紀 バグラト朝成立
- 13世紀~14世紀 タタール、ティムールによる侵攻
- 16世紀~18世紀 西部がオスマン帝国、東部はサファヴィー朝ペルシアの支配下となる
- 1783年 ギオルギエフスク条約によりグルジア東部はロシア帝国の保護領となる
- 1801年 ロシア帝国、グルジア東部を併合
- 1873年 露土戦争の結果、ロシアに併合
- 1918年5月 グルジア独立宣言
- 1922年 アルメニア、アゼルバイジャンとともにザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国を形成、ソビエト連邦に加盟
- 1936年 スターリン憲法により、独立した連邦構成共和国となる
- 1989年8月、南オセチア紛争はじまる
- 1990年8月、アブハジア紛争はじまる
- 1991年12月、ソビエト連邦の解体により独立
- 1992年1月、ズヴィアド・ガムサフルディア大統領が失脚
- 1992年3月、エドゥアルド・シェワルナゼが国家評議会議長に就任
- 1992年10月、エドゥアルド・シェワルナゼが最高会議議長に就任
- 1995年11月、エドゥアルド・シェワルナゼが大統領に就任
- 2000年4月、エドゥアルド・シェワルナゼ大統領再選
- 2002年8月、チェチェン共和国武装勢力に加わっていた日本人義勇兵(元自衛隊員)がグルジア領内で拘束されたとの報道
- 2003年11月23日、エドゥアルド・シェワルナゼ大統領が辞任、ニノ・ブルジャナゼ暫定政権発足
- 2004年1月4日、大統領選挙を実施、ミヘイル・サアカシュヴィリが圧勝
- 2004年1月25日、ミヘイル・サアカシュヴィリが大統領に就任
- 2006年7月25日、グルジア軍が、独立を主張しているアブハジアに軍事攻撃を仕掛ける。アブハジア側とグルジア側にまたがるコドリ渓谷での26日までの戦闘で、現地を支配していたアブハジア系民兵を追い出した。グルジア側は、この戦闘で攻撃ヘリ数機、兵員輸送トラック34台、戦闘用車両18台を投入した。この戦闘で民間人一人が死亡、数人が負傷、民兵25人が捕虜となった。
[編集] 政治
グルジアは共和制で、国家元首は大統領である。1995年12月8日から2004年2月17日までの間、首相の規定は無く大統領が政府を組織していた。ただし、首相に相当するものとして国務大臣が設置されていた。大統領は首相その他の大臣の任命・指名に関して議会の同意を得る必要がある。
一院制で、任期4年(定数 235名)の議会がある。その内、150議席が比例代表制で、85議席が小選挙区制である。
州知事と大都市の市長は、大統領による任命制である。
[編集] 日本との関係
グルジア領内には在グルジア日本大使館は無く、アゼルバイジャン大使館が、在グルジア大使館を兼轄している。
[編集] 地方行政区分と主要都市
国内には、北西部にアブハジア自治共和国(首都: スフミ)、南西部にアジャリア自治共和国(首都: バトゥミ)、南オセチア自治州(州都: ツヒンワリ)がある。
[編集] 地理
グルジアはカフカス山脈を中心に国土の大部分が山岳地帯である。カフカス山脈に沿ってロシア連邦と723kmの国境を接し、クラスノダル地方、カラチャイ・チェルケス共和国、カバルダ・バルカル共和国、北オセチア共和国、イングーシ共和国、チェチェン共和国などロシアの民族共和国と接する。そのためグルジアは古くから紛争の影響を受けやすく、アブハジア自治共和国、南オセチア自治州、パンキシ渓谷など中央政府の支配権の及ばない地域がある。特にチェチェン共和国と接するパンキシ渓谷を中心にチェチェンゲリラの巣窟となっているなど問題がある。
グルジアは山脈によって地方が分けられ、東部は歴史的にイベリアと呼ばれた一方、西部はコルキスと呼ばれていた。また山脈は、北部地域のスヴァネチを分けている。またこれらの山脈を源としてリオニ川やクラ川などの主要な河川がある。
[編集] 経済
グルジア経済は伝統的に、黒海観光、柑橘類、茶やブドウの生産を中心としてきた。ソビエト連邦時代には黒海沿岸は有数の保養地になり、観光業が盛んだった。また、ブドウなどを利用してワインやコニャック製造などの食品加工業。マンガンや銅の採鉱と、これに付随して金属、機械類、化学薬品や織物を生産する工業部門も発達していた。
独立前後からの内戦などの混乱により経済は壊滅的な打撃を受け、国内総生産(GDP)は1994年には1991年の34.9%にまで低下したが、IMFと世界銀行の支援の元で市場経済の導入が進められ、1995年以来GDPは増加に転じ、一方でインフレを抑制し本質的な経済収益を得た。しかしグルジア経済は、徴税の失敗により大幅な財政赤字を経験し続けた。さらにエネルギー不足に苦しんだため、1998年に配電事業を民営化し、これによりエネルギー事情は確実な改善が見られた。政府は長期的な経済回復に対する望みを、ポチとバトゥミなどの重要な港湾を通る国際的な輸送回廊の開発にかけている。膨らむ貿易赤字、腐敗の問題や不安定な政治状況は、経済情勢を短期的に不透明にさせている。しかしながら、復活した投資は、2000年に、経済成長に恐らく6%以内の拍車をかけたと思われる。
自国内で供給できるエネルギーは殆どが水力発電のみで、天然ガスや石油を含むエネルギーの大部分をロシアからの輸入に依存している。
[編集] 国民
住民の多くはカルトヴェリ人(グルジア人)(83.8%)である。その他アルメニア人、ロシア人、アゼルバイジャン人、オセチア人、アブハジア人などがいる。
言語は公用語がグルジア語である。その他ロシア語、アルメニア語、アゼルバイジャン語なども使われている。
宗教は、東方正教会のグルジア正教徒が75パーセント、イスラム教徒が11パーセント。
[編集] 文化
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月7日 | クリスマス | グルジア正教会(東方正教会)のクリスマス、ユリウス暦の12月25日。 | |
3月3日 | 母性の日 | ||
3月8日 | 国際女性デー | ||
4月9日 | 国民団結の日 | 1989年トビリシで反ソ暴動が発生した日 | |
5月9日 | 戦勝記念日 | ||
5月12日 | 聖アンドレイの日 | 伝承によれば使徒聖アンデレがキリスト教を最初にグルジアに伝えたとされる。 | |
5月26日 | 独立記念日 | 1918年に独立宣言をした日 | |
8月28日 | 生神女就寝祭 | ユリウス暦8月15日 | |
10月14日 | スヴェティツホヴェリ教会の日 | ||
11月23日 | 聖ゲオルギオスの日 | 「啓蒙者」ゲオルギオスはグルジアの守護聖人。 |
[編集] 有名な出身者
- 詳細はグルジア人の一覧を参照
[編集] 外部リンク
[編集] 公式
[編集] その他
- 日本外務省 グルジアの情報
- 日本グルジア文化協会
- グルジアのバラ革命(現代史論考)
- 世界の国々 > アジア
-
東アジア: 日本 | 中華人民共和国 | 中華民国 | モンゴル国 | 大韓民国 | 朝鮮民主主義人民共和国 東南アジア: インドネシア | カンボジア | シンガポール | タイ | 東ティモール | フィリピン | ブルネイ | ベトナム | マレーシア | ミャンマー | ラオス 南アジア: インド | スリランカ | ネパール | パキスタン | バングラデシュ | ブータン | モルディブ 中央アジア: ウズベキスタン | カザフスタン | キルギス | タジキスタン | トルクメニスタン 西アジア: アゼルバイジャン | アフガニスタン | アラブ首長国連邦 | アルメニア | イエメン | イスラエル | イラク | イラン | オマーン | カタール | 北キプロス | キプロス | クウェート | グルジア | サウジアラビア | シリア | トルコ | バーレーン | パレスチナ | ヨルダン | レバノン
このページはウィキプロジェクト 国のテンプレートを使用しています。