ノート:コンスタンティノープルの陥落
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「コンスタンティノス11世は西ヨーロッパ諸国に救援を求めたが、ローマ教皇ニコラウス5世はフィレンツェ公会議で対立した東ローマ帝国を支援することを望まなかった」 について:説明が抜けている感じがします。フィレンツェ公会議では、東方教会側が参加し(オスマン帝国との対抗上、ヨーロッパと結ぶため)、東西教会の合同を決議しており、コンスタンティノス11世の項目を見ると、皇帝はカトリックへの合同を宣言したが、国民が反発したためうまくいかなかった、ということのようです。(ニコラウスに救援を決定するほどの力があったのかどうか、今のところわからないので保留) --忠太 2004年10月16日 (土) 07:45 (UTC)
少し加筆修正しました。しかしまだ曖昧な表現が多く、百科事典として良い文章とは言えません。近いうちに全面的に書き直す必要がありそうです。
[編集] 都市名と項目名の不一致
2ちゃんの世界史板のウィキペディアスレで指摘されていた事であるが[1]、確かに都市名がコンスタンティノポリスでその都市の陥落を扱った項目がコンスタンティノープルの陥落というのはおかしくはないだろうか?--水野白楓 2006年9月3日 (日) 12:16 (UTC)