コンスタンティノス11世
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コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセス(ギリシア語:Κωνσταντίνος ΙΑ' Παλαιολόγος Δραγάσης、Konstantinos XI Palaiologos Dragases、1405年2月8日 - 1453年5月29日)は、東ローマ帝国パレオロゴス王朝の皇帝(在位:1449年 - 1453年)。東ローマ帝国最後の皇帝である。中世ギリシャ語読みではコンスタンディノス11世ドラガシス・パレオロゴス。またコンスタンティノス12世ないしコンスタンティノス13世という呼び方もある。
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[編集] コンスタンティノス11世の生涯
コンスタンティノスは、皇帝マヌエル2世パレオロゴス(在位:1391年 - 1425年)の四男として、首都コンスタンティノポリスで生まれた。コンスタンティノスはれっきとしたパレオロゴス王家の生まれであったが、彼だけは母ヘレナの姓であるドラガシュ(セルビアの地方領主ドラガシュ家)のギリシア語形である「ドラガセス」を姓とした。
1428年、コンスタンティノスは兄テオドロス2世、弟トーマースと共にペロポネソス半島にある帝国領のモレアス専制公領の統治者となった。モレアス専制公時代の1429年にはパトラを併合してかつてのアカイア公国勢力を一掃した。更に中央ギリシアへも進出を企てるなど、ギリシャ人勢力最後の希望の星となったが1446年オスマン帝国のムラト2世に敗れ、ギリシャ人勢力再興の夢は断たれた。
1448年に彼の兄である皇帝ヨハネス8世パレオロゴス(在位:1425年 - 1448年)が死去し、コンスタンティノスと彼の弟デメトリオスとの間に後継者争いが起きたが、結局コンスタンティノスが1449年1月6日にモレアス専制公領の首都ミストラで帝位に就いた。3月にコンスタンティノスはコンスタンティノポリス入りし、ムラト2世と平和条約を結んだ。
1451年2月にムラト2世が没し、後を継いだメフメト2世は、当初は友好的な態度を取っていたものの、コンスタンティノスが帝国を維持するためにとったオスマン帝国撹乱作戦(亡命オスマン朝王子オルハンの擁立)に対して怒り、1452年7月にはボスポラス海峡のヨーロッパ側沿岸にルメリ・ヒサール(バルカン城塞)という名の城砦を築き、コンスタンティノポリス征服を準備しはじめた。
これを受けたコンスタンティノスは、西欧諸国からの援軍を得るため1452年の暮れに東方正教会をローマ・カトリック教会に統合させると宣言した。これは兄ヨハネス8世がフィレンツェ公会議(1439年-1445年に開催)で署名した東西教会の合同決議に従ったものであった。しかしこの宣言は国民から猛反発を受け、大臣兼軍司令官のルカス・ノタラス大公に至っては「枢機卿の四角帽を見るくらいなら、スルタンのターバンを見るほうがましだ」と公言してはばからなかった。メフメト2世の現実主義的な性格から、たとえ征服されても信仰の自由は保障されるとの意見も根強かったとされている。結局西欧からの援軍も得られず、コンスタンティノスの最後の外交的努力も国内に亀裂を生んだだけで終わってしまった。
1453年4月、メフメト2世率いる10万のオスマン帝国軍は、コンスタンティノポリスを包囲した。メフメトはコンスタンティノポリスを明け渡せば、モレアの領有を認めると提案したが、コンスタンティノスはローマ皇帝として最後まで戦うことを選んだ。
コンスタンティノス率いる東ローマ軍は2ヶ月にも渡って抵抗を続けたが、1453年5月29日未明、ついにオスマン軍が城壁を突破し、コンスタンティノスは市内になだれ込んできたオスマン軍の中に姿を消した。こうして、アウグストゥス以来のローマ皇帝の継承者は絶え、紀元前753年に起源を発するローマ帝国は滅亡した(詳細はコンスタンティノープルの陥落の項を参照)。
コンスタンティノポリスの陥落後、コンスタンティノスのものとされる遺体が発見された。遺体は数日間晒されたが、そののち最高の栄誉をもって埋葬された。しかしそれが本当にコンスタンティノスの遺体だったがどうかは定かでなく、オスマン帝国支配下のギリシア人の間には「大理石と化して眠っているコンスタンティノスがいつの日か復活して、東ローマ帝国を再興させる」という伝説が生れた。また正式には認められていないが、彼を聖人と考える正教徒もいた。
[編集] コンスタンティノス11世の配偶者
彼は2度結婚している。まず最初に1428年7月1日、エピロス専制公国君主カルロ1世トッコの姪、マッダレーナ・トッコ(テオドラと改名)と結婚した。しかし彼女は1429年11月に亡くなってしまった。2回目は、エーゲ海のレスボス島のジェノバ人君主の娘カテリーナ・ガッティルシオとだったが、彼女もまた結婚後間もなくの1442年に亡くなった。どちらの結婚でも子供は生まれなかった。皇帝即位後、三度目の結婚が計画され、相手もグルジア王女に決まったが、花嫁の出発よりもコンスタンティノープル包囲戦が先に始まってしまった為、この結婚は実現しなかった。
[編集] もう一人のコンスタンティノス・パレオロゴス
皇帝コンスタンティノス11世は、「コンスタンティノス・パレオロゴス」の名前を持つマヌエル2世の息子としては二人目になる。実はヨハネス8世に続く次子として、もう一人のコンスタンティノスが生まれていた。その生年に関しては1393年-1398年の間としか判らない。彼は生まれて間もなく母や兄と共にモレアス専制公領に避難した。父が西欧から帰国した(1403年)後、母と兄ヨハネス8世、弟テオドロス2世は首都コンスタンティノポリスに戻ったが、コンスタンティノスは一人モネンヴァシアに残され、その地で死去した(恐らくは1405年以前)。なお、コンスタンティノス11世と弟デメトリオスの間にももう一人、ミカエル(ミハイル)という名前の息子が生まれた(1406年頃)が、こちらは誕生後間もなく死去した。
[編集] コンスタンティノス12世、13世説について
コンスタンティノス11世を、12世、あるいは13世とする数え方がある。
まず「コンスタンティノス12世」については、1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノポリス攻撃の際に皇帝に選出されたものの一晩だけで逃亡したコンスタンティノス・ラスカリス(ニカイア帝国の初代皇帝テオドロス1世ラスカリスの兄)をコンスタンティノス11世とし、最後の皇帝を12世とする数え方である。
また「コンスタンティノス13世」については、7世紀の皇帝コンスタンス2世の本名が「コンスタンティノス」(「コンスタンス」は「小さなコンスタンティノス」の意。彼が幼少で即位したため)だったことから、コンスタンス2世を「コンスタンティノス4世」とし、以後の皇帝を
- コンスタンティノス4世→コンスタンティノス5世
- コンスタンティノス5世”コプロニュモス”→コンスタンティノス6世”コプロニュモス”
といった具合に繰り下げて数え、なおかつコンスタンティノス・ラスカリスを「コンスタンティノス12世」としたためではないかと推測される。
[編集] 参考文献
- 井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』(講談社現代新書)、1990年、 254頁。
- 井上浩一・粟生沢猛夫『世界の歴史 第11巻 ビザンツとスラヴ』(中央公論新社)、1998年、478頁。
- 尚樹啓太郎『コンスタンティノープルを歩く』(東海大学出版会)、1988年、258頁。
- 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』(東海大学出版会)、1999年、1227頁。
- 益田朋幸『世界歴史の旅 ビザンティン』(山川出版社)
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