ザ・パンチ・パンチ・パンチ
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ザ・パンチ・パンチ・パンチは、ニッポン放送の夜の23時台(24時台)で、1968年6月から1983年3月まで放送されていたラジオ番組。
スポンサーは平凡出版(現・マガジンハウス)から出版されていた週刊誌、平凡パンチ。テーマ音楽は三保敬太郎の作曲によるものだった。
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[編集] 概要
[編集] 初期
内容としては、『パンチガール』と呼ばれる女性パーソナリティたちが、時々ゲストを交え、時にはセクシーな雰囲気を醸し出しながらおしゃべりを展開するという形の番組で、月曜日から金曜日まで毎日15分間の放送だった。当初は6局ネットでスタート、ニッポン放送においては23:35からのスタートだった。
(のちに1971年10月からは24:00、1972年4月からは23:50、同年6月からは23:45と放送時間が変動)
初代パーソナリティを務めたのは全員オーディションで選ばれた、高橋基子(モコ)、川口まさみ(ビーバー)、シリア・ポール(オリーブ)。当時は女性三人でのラジオ番組というのは画期的だったといわれ、主にリスナーとして番組を支えていた、当時若者だった団塊の世代から大きな支持を得た。三人が『モコ・ビーバー・オリーブ』という名前で『忘れたいのに』『海の底でうたう唄』(1994年にル・クプルがカバーした曲でもある)と続けてレコードを出したことも話題になった。
『ニッポン放送開局記念日スペシャル 笑顔が一番!あなたと一緒に50年』などのニッポン放送の歴史を振り返る特別番組において、時々本番組の音源が紹介されることがあるが、モコ・ビーバー・オリーブ時代の音源が流れることが多いことから、現在でも『ザ・パンチ・パンチ・パンチといえば、モコ・ビーバー・オリーブ』というイメージが強いようである。
[編集] 中期
1971年6月、モコ・ビーバー・オリーブに替わって同じく女性三人組の二代目パンチガールが登場。その中には海老名美どりも居た。この二代目の募集の時には、本番組の人気、話題を反映してか2000通を超える応募があったという。
1973年4月からはこれまでの女性メインというスタイルを変え、メインパーソナリティのくず哲也と女性7名のアシスタントに交替した。
1975年4月からは、ニッポン放送では夜ワイド番組『大入りダイヤルまだ宵の口』がスタートしたが、本番組は引き続き内包番組として放送を続けた。中山エミ、乱一世がパーソナリティとして登場した頃もあった。
この当時、金曜日に『ラブ&ラブ』というコーナーが存在し、その内容は上半身裸のヌードモデルのゲストとトークを展開するというもの。この収録日はわざと残業をするニッポン放送の社員も多かったというが、数回ですぐ終了したという。
[編集] 後期
1979年12月には再び女性三人組になり、翌1980年に本格デビューする松田聖子と、初田順子(後の速水陽子)、戸田裕子の三人が7代目パンチガールとして登場。この時には番組の最後を、月曜日は英語、火曜日はアラビア語、水曜日は中国語、木曜日はフランス語、金曜日は日本語の各国語のメッセージで締めくくるようになっていた。
1981年には最後となる8代目パンチガールとして林紀恵(1980年のホリプロタレントスカウトキャラバングランプリ)、谷山衣枝、小林恵美子が登場。同年11月からはニッポン放送では夜ワイド『くるくるダイヤル ザ・ゴリラ』の内包番組となって引き続き放送されていた。
1983年4月にニッポン放送の夜ワイドが『くるくるダイヤル ザ・ゴリラ』から『ヤングパラダイス』に変わるのに際し、当時増え過ぎていたという内包番組を整理することになり、その一環となって本番組も15年の歴史に幕を下ろすことになった。