シャクシャイン
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シャクシャイン(沙牟奢允、アイヌ語:サクサイヌ saksaynu または サムクサイヌ Samkusaynu、1606年(慶長11年)? - 1669年11月16日(寛文9年10月23日))は、北海道日高アイヌの首長。
シャクシャインは、シベチャリ(現在の新ひだか町)以南の日高地方及びそれ以東の集団であるメナシクルの首長であった。文献によればメナシクルは、現在の新冠町から白老町方面にかけての集団であるシュムクルと、シベチャリ川(静内川)流域の領分を巡って遅くとも1648年から対立していた。メナシクルの先代の首長であるカモクタインはシュムクルの首長オニビシとの1653年の抗争により殺害され、副首長であったシャクシャインが首長となった。
シャクシャインはシベチャリ川下流東岸、シベチャリのチャシ(砦)を拠点としていた(現新ひだか町静内地区)。オニビシはシベチャリ川上流西岸のハエのチャシを拠点としていた(現日高町門別地区)。両者は松前藩の仲介によって講和するが寛文年間(1661~73年)に対立が再燃し、1668年4月、シャクシャインがオニビシを殺害。報復の為、ハエは松前藩に武器の援助を申し出るが拒否される。さらに使者が帰路に急病死すると、使者は松前に毒殺されたという風説が広がった。以前からアイヌは和人(シサム=日本人)から不当な交易、砂金採掘の圧迫を受けており、高まっていたアイヌの和人への不満がこの件により爆発した。これは、皮肉にも対立していたシベチャリとハエを一つにまとめるものであった。
シャクシャインは蝦夷地全域のアイヌ民族へ松前藩への戦いを呼びかけた。1669年6月シャクシャインの指導するアイヌ軍は松前藩へ蜂起を起こした。これがシャクシャインの戦いである。蜂起は各地で発生し、砂金掘りや交易に訪れた船舶や鷹待を攻撃、和人を殺傷した。シャクシャインは松前を目指し進軍、7月末には現在の山越郡長万部町のクンヌイまで攻め進んだ。松前藩から急報を受けた幕府は東北諸藩へ松前藩に対する援軍や鉄砲・兵糧の供与を命じ実行された。
クンヌイでの戦闘は8月上旬頃まで続いたが、渡島半島のアイヌと分断され協力が得られなかったことや幕府や東北諸藩の支援を受けた松前軍が鉄砲を多数装備することが出来たことなどからシャクシャイン側が不利となった。シャクシャインはシベチャリ方面まで撤退し奥地での長期戦に切り替えた。
戦いが長期化することを恐れた松前藩は、シャクシャインに和睦を申し出た。シャクシャインは一旦はこれを拒否するが、子のカンリリカの勧めもあり結局応じることにする。しかしこの申し出は松前藩の罠であり、10月23日に現在の新冠町に当たるピポクの松前藩陣営まで出向いた際、和睦の酒宴の際に潜んでいた武士たちによりシャクシャインは殺害されてしまう。指導者を失った蜂起は次々に松前藩に鎮圧された。