ジャパン女子プロレス
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ジャパン女子プロレス(じゃぱんじょしぷろれす)は、かって存在した日本のプロレス団体。通称ジャパン女子またはジャパ女。運営会社は途中で変わり、1992年の解散時は「ジャパン企画プロモーション」が運営していた。
[編集] 略史
旗揚げ戦は1986年8月17日。日本女子プロレスが国際プロレスに吸収されて以来、女子プロレス団体は全日本女子プロレス(全女)しかなかったが、ジャパン女子は全女のクラッシュギャルズ人気を引き金とする女子プロレスブームを背景に、「プロレス版『おニャン子クラブ』」を当初のコンセプトとして設立された。そのため、旗揚げ時には芸能事務所「ボンド」が関わり、おニャン子クラブをプロデュースした秋元康がアドバイサーとして関与していた。またコーチ役として男子プロレス界から山本小鉄を招いた。
元全女のジャッキー佐藤、ナンシー久美とシュートボクシングの風間ルミ、柔道の神取忍を四天王とし、アイドル系の尾崎魔弓、キューティー鈴木、悪役のイーグル沢井などを輩出した。
旗揚げ時は豪華であったが、その後、何度も経営不安が発生し、打開策として当時現役を退いて同団体のコーチに就いていた大仁田厚とグラン浜田の抗争を発生させ、男女混合団体にしようとする動きもあったが、所属選手達の猛反発を受け、この計画は頓挫している。
1991年10月、若手選手の半田美希、穂積詩子、北村真美(=レオ北村)が、持丸常吉社長ら当時の経営陣を批判して退団した事をきっかけに経営不安が再燃。一旦は収まったものの、翌1992年1月、アメリカLPWAへの遠征を申し出ていた風間を会社が解雇。これに神取が反発して来年度の契約を更新しない姿勢を示したことで団体内は混乱し、同年1月26日の大宮大会をもって解散した。
解散後、ジャパン企画プロモーションの子会社である「JWPプロジェクト」を受け皿とする新団体が後を引き継ぐ計画が立ち上がったが、選手会が分裂。鈴木、尾崎、ミスA(後のダイナマイト・関西)、プラム麻里子、福岡晶、斉藤澄子はJWPとして前述の後継団体に参加。ハーレー斉藤、大沢ゆかり(=ジェンヌゆかり)、斉藤緑(=キャロル美鳥)、二上美紀子(=GAMI)、遠藤美月は半田グループや風間、神取と合流してLLPWを設立した。また最終興行の時点で引退を表明していた沢井、デビル雅美は程なく引退を撤回し、ぞれぞれLLPW、JWPに加わっている。