スエトニウス
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ガイウス・スエトニウス・トランクイルス(Gaius Suetonius Tranquillus, 70年頃 - 140年頃)は古代ローマの歴史家。その著作はスキャンダルや醜聞が好んで集めれらているが歴史資料としての価値は高い。
ガイウス・ユリウス・カエサルからドミティアヌスまでの12人のローマ皇帝たちの伝記である『ローマ皇帝伝』の著者として知られる。
[編集] 経歴
皇帝伝の著者として知られるスエトニウスは、ヒッポ・レギウス(今日のアルジェリアのアンナバにあたる)から来たとされるスエトニウス・ラエトゥスの子として産まれた。ラエトゥスは騎兵であり、オト帝がウィテリウスと戦ったベドリアクムの戦い(69年)にも従軍していた。
スエトニウスは元老院議員で歴史家であった小プリニウスとも親しかった。プリニウスは彼を物静かで勤勉であり、文筆に一身を捧げた人物と書き残している。小プリニウスはスエトニウスがイタリアの小規模な不動産を購入、そして未婚ないし子のいなかったスエトニウスにも免税の特権(通常3人の子の父親には認められた)を認めさせるようトラヤヌス帝との間を取り持つなど協力をしている。プリニウスを通じて彼はトラヤヌスやハドリアヌスとも親しくなった。
またスエトニウスはプリニウスがプロコンスルとして110年から112年まで東方アシアの属州の統治を任されるとスタッフとして働いた。トラヤヌスの治世時には何らかの秘書官と公文書館の監督業務に携わっていたようである。
112年、スエトニウスはハドリアヌスより皇妃ウィビア・サビナに対する不敬な態度を咎められて解任される。彼の解任はハドリアヌスの行政改革を反映したものではないかと現在の解釈では考えられるので、再びハドリアヌスに用いられるようになった可能性はある。しかしながら122年以降スエトニウスが再び職務に就いたという記録は残ってはいない。
[編集] 業績
皇帝伝(De Vita Casarum) Main article: 皇帝伝
スエトニウスは、今日「皇帝伝」の著者として広く記憶されている。皇帝伝は帝政初期の指導者の伝記である。そこにはユリウス・カエサル、アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロ、ガルバ、オト、ウィテリウス、ウェスパシアヌス、ティトゥスおよびドミティアヌスの伝記が含まれている。ただしカエサルについては始めの何章かが失われている。皇帝伝はおそらくはハドリアヌスの治世に書かれたものと思われ、スエトニウス本人の友人であり、119年に近衛隊長を勤めていたガイウス・セプティキウス・クラルスに献呈されている。 この書物は、これらの諸帝を一定の様式で伝えている。すなわち、風貌の描写、前兆、系譜、引用、そしてその後にどの皇帝についても一貫した順序での経歴、事績を述べるに至る。スエトニウスは公共の備えのために蓄財した皇帝を「貪欲」とみなしたが、これは平均的なローマの中流階級の態度を反映したものであるかもしれない。