トニー・ラルーサ
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トニー・ラルーサ (Anthony LaRussa Jr., 1944年10月4日 - )は、メジャーリーグ、セントルイス・カーディナルスの監督。英語とスペイン語のバイリンガルである。
[編集] 略歴
ニューヨーク州に生まれ、フロリダ州タンパで育つ。高校卒業後の1962年に内野手としてカンザスシティ・アスレティックスと契約し、翌1963年の5月10日にメジャーデビュー。しかし2年目のシーズンオフに痛めた右腕が完治せず、選手としては大成することなく終わる。選手時代のほとんどをオークランド・アスレティックス、アトランタ・ブレーブス、ピッツバーグ・パイレーツ、シカゴ・ホワイトソックス、セントルイス・カーディナルス、シカゴ・カブス等のマイナー組織で送る。選手時代のシーズンオフにはロースクールに通い、ロイヤーの資格を獲得するが、その後も弁護士活動は行っていない。
1979年のシーズン中に、弱冠34歳でシカゴ・ホワイトソックスの監督に就任。1983年にはアメリカンリーグ西部地区を制し、最優秀監督賞を受賞。同年はプレーオフでボルチモア・オリオールズに敗れる。その後1986年のシーズン中にホワイトソックスが26勝38敗とつまづいた責任を問われ、解雇される。
ホワイトソックスから解雇された3週間後にオークランド・アスレティックスの監督に就任する。マーク・マグワイア、ホセ・カンセコの通称バッシュ・ブラザースを擁して、1988年から1990年まで三年連続でワールドシリーズにチームを導き、1989年にはサンフランシスコ・ジャイアンツを降してワールドシリーズを制覇する。1988年に二度目、1992年に三度目の最優秀監督賞に輝く。
1995年にアスレティックスの監督を辞任、そのままセントルイス・カーディナルスの監督に就任し、1996年、2000~2002年、2004~2006年の7回ナショナルリーグの中部地区優勝を果たす。2004年には105勝でカーディナルス監督として初のワールドシリーズ進出を果たすが、ボストン・レッドソックスに4連敗を喫し、翌2005年は2年連続100勝を記録するもヒューストン・アストロズにリーグチャンピオンシップシリーズで敗退。2006年は怪我人続出によって83勝で辛うじて地区優勝を果たすなど下馬評は高くなかったものの、ディヴィジョンシリーズでサンディエゴ・パドレスを3勝1敗、リーグチャンピオンシップシリーズでニューヨーク・メッツを激闘の末4勝3敗で下し、ワールドシリーズでもデトロイト・タイガースを4勝1敗で破ってカージナルスに24年ぶり10回目の世界一をもたらした。また、これによりラルーサはスパーキー・アンダーソンに続き史上2人目の両リーグでのワールドシリーズ優勝監督となった。
2004年までの監督としての通算成績は2297勝1986敗、勝率5割3分6厘、そのうちカーディナルスでは977勝803敗、勝率5割4分9厘である。ア・リーグとナ・リーグの両リーグを制覇した史上六人目の監督であり、通算2297勝は歴代三位である。また、両リーグで最優秀監督賞を受賞した二人目の監督でもあり、ラルーサは疑いもなく現代野球の最高の監督の一人である。マイケル・ルイス著「マネーボール」で取り上げられたオークランド・アスレチックスを代表とするビッグボールに対抗し、伝統的なバント、盗塁等の小技を用いるスモールボールを好む監督である。2006年世界一の時は、デビッド・エクスタインや田口壮らに指示を送っていた。ラルーサの監督術についてはジョージ・ウィル著『野球術』(原題: Men At Work )の「監督編」に詳述されている。