トマス・ベケット
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トマス・ベケット(Thomas Becket, 1118年12月21日 - 1170年12月29日)は、カンタベリー大司教(1162年 - 1170年)。当初はイングランド王ヘンリー2世に大法官として仕えたが、大司教に叙階された後は、教会の自由をめぐってヘンリー2世と対立するようになり、殺害されることになった。死後、殉教者としてカトリック教会より列聖された。カトリックおよび聖公会で聖人。記念日は12月29日である。
[編集] 生涯
ベケットは商人の家に生まれ、フランスで聖職者としての教育を受けた。カンタベリー大司教テオボルトの側近として活躍する中でイングランド王ヘンリー2世の目に留まり、1155年に大法官に任ぜられた。ベケットは王の期待に応え、腹心として活躍した。ヘンリー2世はベケットであれば、当時摩擦が絶えなかったカトリック教会との関係も円滑化すると考え、1162年にカンタベリー大司教に推薦した。しかし、大司教になるとベケットは、それまでの豪奢で派手な生活をやめ、カトリック教会の権利を主張して王と対立するようなった。
特にヘンリー2世が裁判制度の整備を進める上でクラレンドン法を制定して、「罪を犯した聖職者は、教会が位階を剥奪した後、国王の裁判所に引き渡すべし」と教会に要求したのに対し、ベケットは「教会の自由」を訴え、「教会が特別な免除を受けることは、神聖な世襲財産である」と言って王と争い、迫害を受けてフランスに逃れた。
数年後、王との和解がなり、1170年12月4日に彼はカンタベリーに帰り、人々から大歓迎を受けた。翌日、王の使者が大司教邸をたずねて、ベケットから破門を受けた国王派の司教達の破門取消を要求したが、ベケットは率直に、悔い改めない限り破門の取消は出来ないことを表明した。
王はフランスのノルマンディーで使者の報告を聞き、憤激のあまり「この坊主をわしの為に取り除く者は誰もおらんのか」という意味の罵りの言葉を発した。それを聞いた4人の騎士は、王が大司教暗殺を望んでいると考えた。そこで彼らはドーバー海峡を渡り、12月29日に大司教邸に到着したが、ベケットがなおも王の要求を受け入れなかったため、剣を抜いて大聖堂内に逃げた大司教を殺害した。
王はベケット殺害の報告を聞いて驚愕し、その行為を悔やんだ。ベケットは人々から殉教者とみなされ、カトリック教会は4年後にベケットを列聖した。その後、彼の遺体はカンタベリー大聖堂に安置され、英国で最も人気のある聖人の一人となった。