ニケフォロス2世フォカス
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ニケフォロス2世フォカス(ギリシア語:Νικηφόρος Β' Φωκάς (Nikēphoros II Phōkas)、913年 - 969年12月10日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位:963年 - 969年)。
フォカス家は祖父の代から将軍として東ローマ帝国に仕えてきたカッパドキアの軍事貴族であり、ニケフォロスも皇帝に即位する前は、帝国中央軍の総司令官に当たるスコライ軍団(帝国中央軍を構成する4つの軍団の1つで、最も格が高い)の司令長官として対イスラームの戦いで活躍し、クレタ島をイスラムから奪回し東地中海の制海権を回復するという功績を成し遂げている。
963年、時の皇帝・ロマノス2世が25歳の若さで早世してしまった。ロマノス2世にはバシレイオス(のちのバシレイオス2世)やコンスタンティノス(のちのコンスタンティノス8世)という二人の息子がおり、長男のバシレイオスが即位したものの、まだ幼年であり実際に政務を見ることなど出来るはずがなかった。このため、ロマノス2世の皇后であったテオファノ(941年-970年)はニケフォロス2世と結婚して自らのポジションを維持しようとした。ニケフォロスはバシレイオス・コンスタンティノスを共同皇帝として、自らはその義父という立場を得て、皇帝に即位したのである。
即位したニケフォロス2世は積極的な対外政策を推し進めた。強力な重装騎兵軍団を作り上げてイスラムを相手に戦い、3世紀以上も帝国から離れていたアンティオキアを奪回するなど、帝国領の拡大に成功を収めた。これによって彼は「サラセン人も蒼ざめて死ぬ」と称えられた。また敬虔なキリスト教徒であり、現在まで続くアトス山の修道院共同体はニケフォロスの後援によって成立した。
しかし、その一方で連年の戦争で必要な軍費を調達するために、国民は勿論のこと、貴族や軍人にまで重税を課し、さらには財源を確保するために貨幣の悪鋳を行った。965年にニケフォロスがシチリア遠征に失敗すると、民衆の不満は増大。貴族層や軍人までニケフォロス2世に怨嗟の声を上げるようになった。
さらにニケフォロスはもっとも恐ろしい敵を作ってしまった。それは皇后のテオファノである。もともと都の華やかな空気で育ち、まだ若かったテオファノと、武骨な老軍人とでは反りが合うはずがなかったのである。そこへニケフォロスの甥でありながら冷遇されていた将軍ヨハネス・ツィミスケス(のちのヨハネス1世ツィミスケス)が現れ、テオファノの愛人となった。テオファノの手引きで宮殿内に侵入したヨハネスらは969年12月10日から11日にかけての深夜に、寝室で寝ていたニケフォロスを襲撃。ニケフォロスは暗殺され、ヨハネスが代わって皇帝の位についた。
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