ハインリヒ2世 (アイレンブルク伯)
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アイレンブルク伯ハインリヒ2世、年若のハインリヒ(Heinrich II. der Jüngere von Eilenburg、おそらく1103年 - 1123年)は、ヴェッティン家の人物で、1103年から1123年にマイセン辺境伯を務めた。彼は、父ハインリヒ1世(年長のハインリヒ)の死後に母ゲルトルート・フォン・ブラウンシュヴァイクから生まれた。彼女は夫の死後、まだ生まれていない子供のためにマイセン辺境伯位を要求した。高齢(43歳)であったため妊娠について疑念を持たれると、集めた民衆の前で衣服の下腹部を破いてそのおなかを証拠として示して見せた。政敵は、彼女が生んだのは女児であって、料理人の息子と交換したのだとの噂を流した。
母の後見下、ハインリヒは父の遺領であるマイセン、オストマルクおよびラウジッツの領主権を獲得した。しかし、父親の従兄弟にあたるコンラートは、以後も、その正当性に疑念を主張している。母のゲルトルートが亡くなり(1117年)、ハインリヒが成人すると、コンラートとの間で私闘が始まり、1121年にコンラートは囚われの身となる。コンラートはハインリヒが亡くなるまで捕らえられたままでおかれた。
1123年の初めに、ハインリヒ2世は、ハルバーシュタット司教ラインハルトのために義兄弟のシュターデ辺境伯ハイリヒと共にザクセン公ロタールと戦った。
ハインリヒ2世は、1123年の9月または10月に若くして毒殺された。彼はアーデルハイド・フォン・シュターデと結婚していたが、この結婚から子供は生まれなかった。このため、コンラートがマイセン辺境伯を要求した。皇帝ハインリヒ5世がマイセン辺境伯に指名したグロイチュ伯ヴィプレヒト(1124年没)に対抗するため、コンラートはザクセン公ロタール支持を示した。この主張に基づき、ロタールは、コンラートをマイセン辺境伯に任命し、バレンシュテットのアルブレヒト熊公にオストマルクの残り部分を与えた。ヴィプレヒトの息子であるハインリヒ・フォン・グロイチュはラウジッツを手に入れた。
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