ザクセン公国
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ザクセン公国(ざくせんこうこく、Herzogtum Sachsen, 英:Duchy of Saxony)は、中世から近世にかけて北部ドイツのザクセン地方一帯を支配した国家。その版図はおおむね現在のドイツのザクセン州、ニーダーザクセン州、ノルトライン=ヴェストファーレン州、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州、ザクセン=アンハルト州にあたる。1806年の神聖ローマ帝国の解体によってザクセン王国となった。
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[編集] 歴史
[編集] 前史
もともとエルベ川北岸のホルシュタイン一帯に集落を営んでいたザクセン人は、2世紀から4世紀にかけて徐々に生存圏を拡大していった。5世紀には一部のザクセン人がイギリスに上陸し、いわゆる、アングロ・サクソン人のもととなった。6世紀初頭には、ザクセン人はライン川一帯まで勢力を広げていた。8世紀からフランク王国が東方への侵攻を開始、ザクセンも抵抗の末にその版図の一部となった。フランク王カール大帝は、降伏したザクセン人のリーダーであるウィドゥキントを改宗させ、ザクセン公とした。
844年、ウィドゥキントの子孫のリウドルフはザクセン公となり、その後続く家系の始祖となった。リウドルフ家はフランク王国内でも力を持ち、ハインリヒ1世はドイツ王となってザクセン朝を開いた。その後オットー2世が962年に初代の神聖ローマ皇帝オットー1世となった。オットー1世はザクセンを留守にすることが多かったため、ヘルマン・ビリンクをザクセン辺境伯、後にザクセン副公とし、ザクセンの統治を任せた。ヘルマンの息子のベルンハルト1世の代には正式にザクセン公とされた。これによってリウドルフ家からビルンク家へ系統が変わった。
[編集] 公位争奪戦
1106年にビルンク家最後の当主マグヌスが死亡、後継者がいなかったため、ズップリンブルク家のロタール2世がザクセン公となった。1125年、ロタール2世は皇帝に即位し、ロタール3世となった。1137年、ロタール3世が亡くなり、ロタールもまた後継者を残していなかったため、娘婿でヴェルフェン家のバイエルン公ハインリヒ10世(尊大公)がザクセン公ハインリヒ2世となった。ハインリヒは帝位も狙っていたが、バイエルンとザクセンを支配するハインリヒに力が集中するのを恐れた諸侯は、ハインリヒを支持せずにコンラート3世を推戴した。コンラート3世もまた諸侯と同じ警戒心を持っていため、ハインリヒをザクセン公と認めず、新たにアスカン家のアルブレヒト1世(熊公)をザクセン公とした。
ハインリヒ10世の息子ハインリヒ12世(獅子公)は帝位とザクセン公の地位を狙って争い、1142年の和平条約でアルブレヒト1世を退位させ、ザクセン公ハインリヒ3世となった。しかし、その後フリードリヒ1世(赤髭王)が、ハインリヒの行為を不法であるとしてザクセンを攻撃した。1180年、ハインリヒは追放され、新たにアスカン家のベルンハルト3世がザクセン公となった。1260年、アルブレヒト2世が死亡、遺領はザクセン・ヴィッテンブルクとザクセン・ラウエンブルクに分割された。両家ではアルブレヒト3世が継承したザクセン・ヴィッテンブルクが本家にあたる。
[編集] 選帝侯
1356年、カール4世の発布した金印勅書によって、ザクセン公は選帝侯の資格を与えられた。1422年、アルブレヒト4世の死によってアスカン家は途絶え、ザクセン公位はマイセンおよびチューリンゲンの辺境伯、ヴェッティン家のフリードリヒ1世(好戦公)がその地位を継承した。1464年にフリードリヒ2世が死亡すると、遺領は分割相続された。年長のエルンストがザクセン選帝侯となり、北マイセン、南チューリンゲン、ヴィッテンブルクを継承した。もう1人の息子アルブレヒトは南マイセン、北チューリンゲンを継承し、ザクセン公を称した。
16世紀初頭から宗教改革運動の気運が高まった。エルンスト系のフリードリヒ3世(賢公)は、マルティン・ルターを保護し、プロテスタントを承認した。これによってザクセンには多くのプロテスタントが流入した。一方、アルブレヒト系は旧教寄りで皇帝を支持していた。両者は対立するようになり、ザクセンは新旧両派の抗争の場ともなった。1547年、ミュールベルクの戦いで勝利したカール5世は、自身に敵対したヨハン・フリードリヒ(エルンスト系)から選帝侯の資格を剥奪し、味方したモーリッツ(アルブレヒト系)に報奨としてこれを与えた。以降、選帝侯の資格は旧教支持のアルブレヒト系が継承した。しかし、前述したようにザクセンには多くのプロテスタントが存在したため、しばしば争いの火種となった。また、後になるとザクセン選帝侯の中にもプロテスタントに改宗するものが出現した。
[編集] ザクセン王国へ
1618年から始まった三十年戦争において、時のザクセン公ヨハン・ゲオルグ1世は、皇帝とプロテスタントの板ばさみとなって曖昧な態度を取り続けた。そのため、ザクセンの国土は軍隊の侵攻と略奪によって荒廃した。1697年、フリードリヒ・アウグスト1世はポーランド王に選出された。ポーランドはカトリックが国教だったため、フリードリヒ・アウグストはルター派からカトリックに改宗して即位し、ポーランド王アウグスト2世となった。しかし、これによってザクセンは大北方戦争とポーランド継承戦争に巻き込まれることとなった。フリードリヒ・アウグスト1世の息子、フリードリヒ・アウグスト2世もポーランド王とザクセン公を兼ね、ポーランド王アウグスト3世となった。
1805年、ナポレオン1世が神聖ローマ帝国へ侵攻、帝国は解体され、ライン同盟が結成された。これにともなってザクセン公国はザクセン王国となった。時のザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世はザクセン王フリードリヒ・アウグスト1世となった。
以降はザクセン王国を参照。