バダホス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バダホス(Badajoz)は、スペインの都市。エストレマドゥーラ州バダホス県の県都である。ポルトガルとの国境のそばに位置し、グアディアナ川の左岸に面する。人口は143,019人(2005年)。
目次 |
[編集] 概要
バダホスには司教座が置かれている。ムーア人の城の遺跡を頂く高台に築かれ、グアディアナ川を見おろす位置にある。堀のある頑丈な市壁に囲まれ、いかめしい外見を見せる。城のある丘とサン・クリストバルの要塞の間を流れる川には、花崗岩の橋がかけられている。バダホスの外見は、厳しい歴史を思い起こさせる。カテドラル(1238年)も胸壁のある要塞のような姿をしている。
[編集] 歴史
バダホスには先史時代から人間が住んでいたが、都市は875年に後ウマイヤ朝の軍人で反乱を起こしたイブン・マルワンによって築かれた。1031年、タイファの1つバダホス王国の首都となった。1168年に短期間ポルトガルに支配されたあと独立を保ち、1229年にアルフォンソ9世に奪われた。
国境の要塞として、この都市は何度も包囲攻撃を受けた。1660年にはポルトガルに、1705年にはスペイン継承戦争の同盟国に攻囲された。
半島戦争では1808年と1809年にフランス軍に攻撃され持ちこたえたが、1811年3月10日にスールト元帥のフランス軍に降伏した。べレスフォードの率いるイギリス軍がバダホスを奪還しようとし、5月16日にアルブエラの戦いで救援軍を破ったが、6月には攻囲は放棄された。
1812年、アーサー・ウェルズリー(のちのウェリントン公)は、フランスの部隊5000名を擁するバダホスの奪還を試みた。3月16日に攻囲戦が開始され、4月始めには市壁に3つの突破口が開かれた。4月6日、イギリス軍2個師団がこの突破口から急襲した。この攻撃は5時間にわたって勇敢に続けられたが、損害が大きく何度も押し戻された。5000名の死傷者を出してウェリントン公はバダホスを占領した(en:Battle of Badajoz (1812)を参照)。
1883年8月、軍と共和派による反乱がバダホスで起こったが、失敗に終わった。
スペイン内戦では、1936年にこの地でバダホスの戦いが行われ、フランコ軍が勝利した。多くの共和派が闘牛場で処刑された(en:Battle of Badajoz (1936)を参照)。
[編集] スポーツ
テルセラ・ディビシオンに属するサッカーチームCDバダホスが本拠地を置いている。
[編集] バダホス出身の人物
- マヌエル・デ・ゴドイ - 18-19世紀の政治家。
- ルイス・デ・モラレス - 16世紀の画家。作品がバダホスのカテドラルに飾られている。
[編集] 参考文献
この記述はパブリックドメインの百科事典『ブリタニカ百科事典第11版』("Encyclopædia Britannica" 1911年版)に基づいています。
[編集] 外部リンク
- Ayuntamiento de Badajoz - バダホス市のサイト