ウェリントン公アーサー・ウェルズリー
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生年月日 | 1769年4月30日 |
出生地 | ダブリン、アイルランド |
初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリー(Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, 1769年4月30日-1852年9月14日)はイギリスの軍人、政治家。ダブリン(アイルランド)に生まれる。外務大臣をつとめたリチャード・ウェルズリーは兄。ナポレオンとの戦いで軍功を重ね、最終的にワーテルローの戦いで打ち破った。通称は「鉄の公爵(Iron Duke)」。後に首相となる。愛馬はコペンハーゲン。
目次 |
[編集] 略歴
- 1802年 - イギリス陸軍少将
- 1807年 - バス勲爵士叙爵
- 1807年 - アイルランド相
- 1808年 - イギリス陸軍中将
- 1808年 - イベリア戦争
- 1809年 - ウェリントン子爵叙爵
- 1812年 - ウェリントン伯叙爵
- 1812年 - ウェリントン侯叙爵
- 1813年 - イギリス陸軍元帥
- 1813年 - フランス戦争
- 1814年 - ドゥロ侯およびウェリントン公叙爵
- 1814年 - 貴族院議員
- 1815年 - ウィーン会議主席全権大使
- 1815年 - ワーテルローの戦い
- 1827年 - 陸軍総司令官
- 1828-1830年 - 首相
- 1834-1835年 - 外務大臣
- 1841年 - 無任所大臣
- 1842-1852年 - 陸軍総司令官
他にオックスフォード大学の総長も勤めた。ウェリントンはイギリス最後の公爵位を持つ首相である。首相としては1829年にカトリック解放令(イギリス・アイルランドではイギリス国教会成立後、カトリック教徒は様々な差別を受けていた)を発した一方で保守政治を行うなど、評価は必ずしも一定ではない。
ウェリントンはまた、世界で初めて鉄道の開通式(1825年)に招かれた賓客であるが、とある理由から以降は大の鉄道嫌いになったと言われる。
[編集] 爵位
ウェリントン公、ウェリントン侯、ドゥロ侯、ウェリントン伯、タラヴェラおよびウェリントンのウェリントン子爵、ウェルズリーのウェリントン男爵(以上、イギリスにおける爵位)、ウォータールー大公(オランダにおける爵位)、キウダード・ロドリゴ公(スペインにおける爵位)、ヴィットリア公、トレス・ヴェドラス侯、ヴィミエロ伯(以上、ポルトガルにおける爵位)、ブルノワ公(フランスにおける爵位)等。
[編集] 「ウェリントンの勝利」
ベートーヴェンは、1813年6月21日にスペインのビトリアでウェリントンがスールト将軍らの軍勢を蹴散らした勝報を聞きつけ、メトロノームで名高いメルツェルの作った「パンハルモニコン」なる自動楽器のための「ウェリントンの勝利、またはヴィットリアの戦い」という楽曲を作曲し始めた。しかし、「パンハルモニコン」の性能に合わせるのが不都合になったのか、ベートーヴェンは管弦楽曲に変えて作曲を進め、1813年12月8日にウィーン大学講堂で開かれた「傷痍兵のための慈善演奏会」で初演された。初演にはフンメル、シュポーア、モシェレス、サリエリらも参加し、サリエリは大砲を表す大太鼓隊の指揮を執った。
初演後、ベートーヴェンとメルツェルとの間に著作権トラブルが発生したが、1817年にはベートーヴェンの勝訴に帰し、この曲はジョージ4世(当時ジョージ3世の摂政)に献呈された。
曲の大まかな内容はチャイコフスキーの「1812年」と同じようにフランス軍を打ち負かす内容であるが、「1812年」とは違って本物の大砲を使う指定は無く、銃撃は小太鼓で表現されている。もっとも、本物の大砲とマスケット銃を使っている録音もある(エリック・カンゼル指揮、シンシナティ・ポップス・オーケストラ)。
一説にはこの曲を「ベートーヴェンの中で最低の楽曲」と評する声もある。
ウェリントンの勝利を参照。
[編集] 外部リンク
- 世界帝王辞典>各家成員リスト>ウェルズリー家
- MEDALLIONS OF THE NAPOLEONIC ERA>Wellington (ナポレオン時代のメダル集の内、ウェリントン公に関するもの)
- Acte du Congrès de Vienne du 9 juin 1815 (ウィーン会議議定書。ウェリントン公の名がその全称号とともに記載)
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