スペイン内戦
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スペイン内戦(スペインないせん、Guerra Civil Española、1936年7月 - 1939年3月)とは、第二共和政期のスペインで勃発した内戦。アサーニャ率いる左派の人民戦線政府と、フランコ将軍を中心とした右派の反乱軍とが争った。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、フランコをファシズム陣営のドイツ・イタリアが支持するなど、第二次世界大戦の前哨戦としての様相を呈した。
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[編集] 背景
第一次世界大戦後のスペインでは、右派と左派の対立が尖鋭化していた上にカタルーニャやバスクなどの地方自立の動きも加わり、政治的混乱が続いていた。そのため、一時はプリモ・デ・リベラ将軍(ファランヘ党創設者の同名のホセ・アントニオ・プリモ・デ・リべーラ侯爵は彼の息子である)による軍事独裁政権も成立した。1931年に左派が選挙で勝利し、王制から共和制へと移行(スペイン革命)するが、1933年の総選挙では右派が勝利して政権を奪回するなど、左派と右派の対立は続いた。左右両勢力とも内部の統一が図れなかったため、政治的膠着状態が続いていたが、1935年にコミンテルン第7回大会で人民戦線戦術が採択されると左派勢力の結束が深まり、1936年の総選挙で再び左派が勝利し、マヌエル・アサーニャが率いる人民戦線政府が成立した。これに対して、フランコがスペイン本土と植民地モロッコで軍隊が反乱を起こすと、カトリック教会、地主、資本家、軍部などの右派勢力はこれを支持してスペイン全域を巻き込む内戦へと突入した。
[編集] 内戦の展開
反乱を起こしたフランコ将軍は、ファシズム政権を樹立していたドイツとイタリアから支援を受けた。モロッコのフランコ軍は、両国の輸送機協力によって本土各地へ空輸されて早期な軍事展開を果たした。ポルトガルに成立していたサラザール独裁政権もフランコを助け、アイルランドもエオイン・オ・デュフィ率いる義勇軍がフランコ側に参戦した。当時、ファシズムに対して宥和政策をとっていたイギリスは、内戦が世界大戦を誘発することを恐れて中立を選んだ。隣国フランスでは、レオン・ブルムを首相として人民戦線内閣が成立し、当初は空軍を中心とした支援を行ったが、閣内不一致で政権は崩壊し、結局はイギリスと同様に中立政策に転換した。そのため、人民戦線政府は国家レベルではソビエト連邦とメキシコからしか援助を受けられず、しかもメキシコからの軍事的な援助はごくわずかであった。しかし、国際旅団 (en) が各国から駆けつけたことは、反ファシズムの結束を象徴的に示すことにはなった。
[編集] 反乱軍の進撃
内戦の初期においては、人民戦線側はバスク、カタルーニャ、バレンシア、マドリード、ラ・マンチャ、アンダルシアなど国土の大半(どちらかというと地中海よりの国土の東半分)を確保したのに対して、反乱軍側はガリシアとレオン(反乱軍を支援するポルトガルと国境を接する西側の地域)を確保していたに過ぎなかった。
反乱軍は当初は首都のマドリード(攻撃が激化すると政府はバレンシアへ移転、さらにバルセロナへ移転)を陥落させようと図るが、人民戦線側も国際旅団などによって部隊が増強されており、市民の協力で塹壕が掘られ、ソ連から支援武器が到着したこともあり、必死の抵抗をみせた。結局マドリードは、内戦の一番最後まで人民戦線側に掌握され続けた。このため、内戦は長期化の様相を見せはじめ、フランコ将軍はイベリア半島北部の港湾地域、工業地帯制圧へと戦略を切り替えた。
反乱軍は、当初からフランコが全権を握っていたわけではなかったが、フランコが独伊の支援をとりつけていたこと、フランコと並ぶファシスト側の指導者であったエミリオ・モラ・ビダルの事故死(1937年6月)などが重なり権力の集中が進み、ファランヘ党(創設者のホセ・アントニオ・プリモ・デ・リべーラ侯爵は人民戦線側に捕らえられ処刑)と他政党を統合・改組させてその党首に就任、他政党の活動を禁止させてファシズム体制を固めた。
反乱軍の北部制圧は確実に進められ、1937年春には北部のバスク地方が他の人民戦線側地域から分断されて孤立し、ビルバオ(6月)、サンタンデール(8月)、ヒホン(10月)など主要都市が陥落して、アストゥリアスからバスクは完全に反乱軍に占領された。その間の1937年4月26日にはバスク地方のゲルニカがドイツの義勇軍航空部隊コンドル軍団とイタリア空軍によって爆撃され、多くのバスク人が犠牲になったと言われている(爆撃の真相は不明だが、パブロ・ピカソの絵画の題材になったことで有名になった)。
さらに、1938年に入ると南部ではアンダルシア地方の大部分がフランコ側に占領され、中央部でもエブロ川南岸地域の制圧によって反乱軍はバレンシア地方北部で地中海沿岸にまで達した。これにより、共和国側の勢力はカタルーニャとマドリード、ラ・マンチャで南北に分断され、カタルーニャの孤立化が進んだ。
[編集] 共和国軍の混迷
一方、共和国軍(反ファシズム)側の足並みはそろわなかった。急進的労働組合であり労働者自治(アナルコ・サンディカリズム)革命を志向する全国労働連合とイベリア・アナーキスト連盟(CNT・FAI)は、反スターリンの立場を取る左翼政党マルクス主義統一労働党 (POUM) と協力し統治下の地域で社会主義的な政策を導入しようとした。バルセロナでは、労働者による工場等の接収もみられた。しかし、これらの組織はコミンテルンに同調しなかったため、コミンテルンの統制下にあったスペイン共産党は彼らをトロツキストと批判し、内部対立を深めた。ついに1937年5月、バルセロナでは両勢力が軍事衝突へと至り、500名近くの死者を出す惨事となった。地域政党とも共同歩調をとることが困難であった。
スペイン共産党は内戦以前は極少数党派にすぎず、左翼は圧倒的にバクーニン派アナキストのCNT・FAIによって占められていたが、最大の援助国ソ連の意向によって内戦の進展とともに次第に勢力を拡大していった。
国際的情勢は、さらにフランコ将軍に有利なものとなった。カトリック教会を擁護する姿勢をとったことで、ローマ教会はフランコに好意的な姿勢をみせ、1938年6月にローマ教皇庁が同政権を容認した。共和国側の残された願いは、第二次世界大戦が勃発してファシズム対反ファシズムの対立構図がヨーロッパ全体に広がり、国際的支援をとりつけることであったが、9月のミュンヘン会談でイギリス・フランスがファシズム勢力に対する宥和政策を継続することが明白となり、この期待もくじかれた。
[編集] 人民戦線最後の攻勢と内戦の終結
1938年7月、人民戦線側は南北に分断された支配地域を回復しようと、エプロ川で攻勢に出る(エブロ川の戦い)。カタルーニャ側の人民戦線が総力を結集したことにより、戦闘の当初は人民戦線側が大きく前進するが、反乱軍が増援を送り込んだことによって戦線は膠着状態となり、やがて人民戦線側はずるずると後退していった。両軍ともに甚大な打撃を受けたが、共和国側はフランコ側の約2倍の死者をだし、もはやカタルーニャ側の人民戦線政府は勢力を消耗し尽くしてしまった。
1938年12月より、フランコは30万の軍勢でカタルーニャを攻撃、翌年1月末にバルセロナを陥落させた。人民戦線側を支持する多くの市民が、冬のピレネーを越えてフランスに逃れた。2月末にはイギリス・フランスがフランコ政権を国家承認し、アサーニャ大統領は辞任を余儀なくされた。フランコ側は3月に内戦の最終的勝利を目指してマドリードに進撃を開始、それに対して人民戦線側は徹底抗戦を目指すスペイン共産党と、もはや戦意を喪失したアナーキストの内紛が発生するなど四分五裂の状態に陥って瓦解した。4月1日にフランコによって勝利宣言が出された。
[編集] 国際旅団
多くの国際的社会主義組織を始めとする反ファシズム運動が、この戦争に当たって結束した。アーネスト・ヘミングウェイ、後にフランス文相となったアンドレ・マルローなどが参加、日本人ではジャック白井という人物が1937年7月にブルネテの戦いで戦死している。ただし、結成にはコミンテルンが深く関わっており、構成員の大多数は知識人ではなく労働者であり、また、全構成員の85パーセントは共産党員だった。また、戦闘で消耗を重ねた結果、末期には国際旅団といいながら兵士の大多数がスペイン人に置き換わっていた部隊もあったと言われる。戦争終結直前、国際旅団は有力な支援元であるソビエト連邦のナチス・ドイツとの取り引きのため、撤退が指示された。
[編集] 戦後
内戦に勝利したフランコ側は、人民戦線派の残党に対して、激しい弾圧を加えた。特に自治権を求めて人民戦線側についたバスクとカタルーニャに対しては、バスク語、カタルーニャ語の公的な場での使用を禁じるなど、その自治の要求を圧殺した。そのため、人民戦線側の残党の中から多くの国外亡命者が出たほか、ETAなど反政府テロ組織の結成を招いた。カタルーニャからは冬のピレネーを越えてフランスに逃れた亡命者が数多く出たが、その直後に第二次世界大戦が始まり、フランスがナチスドイツによって占領されたため、彼らの運命は過酷であった。また、国家として人民戦線側を支援した数少ない国の一つであるメキシコは、ラサロ・カルデナス政権の下、知識人や技術者を中心に合計約1万人の亡命者を受け入れた。亡命者がメキシコで果たした文化的な役割は非常に大きかったと言われる。人民戦線政府も亡命政府としてメキシコに1976年まで存続した。
[編集] スペイン内戦を題材とした作品
[編集] 文献
- ゴードン・トーマス/マックス・モーガン=ウィッツ(著)、古藤晃(訳)、『ゲルニカ;ドキュメント ヒトラーに魅入られた町』、TBSブリタニカ、1981年
- ジョージ・オーウェル(著)、『カタロニア讃歌』、スペイン内戦においてイギリス左翼の人脈から、反スターリン主義マルクス主義政党マルクス主義統一労働者党(POUM)の民兵組織に参加したジョージ・オーウェルによるルポタージュ。
[編集] 年表
[編集] 1936年
- 人民戦線協定の締結(1月)
- 人民戦線政府の成立(2月)
- スペイン領モロッコでフランコ将軍の蜂起(7月)
- ドイツ・イタリアがフランコの支援を開始(9月)
- ロンドンで不干渉委員会の開催(9月)
- フランコ、トレドを占領(9月)
- 元首をフランコとして新国家の樹立を宣言(10月)
- フランコによるマドリード攻撃開始(10月)
- 人民戦線、国際旅団の創設を承認(10月)
- 人民戦線、政府をバルセロナへ移転(11月)
[編集] 1937年
- グアダラハーラの戦い(3月)
- ドイツ義勇軍(コンドル軍団)によるゲルニカ爆撃があったとされる(4月)
- バルセロナで五月事件(5月)
- フランコ、ビルバオ占領(6月)
- 人民戦線、政府をバルセロナへ移転(10月末)
[編集] 1938年
- フランコ、ブルゴスで内閣樹立(1月末)
- フランコが地中海岸に到達、人民戦線側は南北に分断(4月)
- パロス岬沖海戦(5月)
- エブロ川の戦い(7月)
- 国際旅団の解散(10月)
[編集] 1939年
- フランコ、バルセロナ占領(1月)
- イギリス、フランスがフランコ政府を承認(2月)
- フランコ、日独伊防共協定に参加(3月)
- フランコ、マドリード占領(3月)
- フランコによる内戦終結宣言(4月)
- アメリカ合衆国がフランコ政府を承認(5月)
- 第二次世界大戦勃発(9月)
[編集] 関連項目
- ファランヘ党
- ドゥルティの友
- パブロ・カザルス
- パブロ・ピカソ
- ロバート・キャパ
- ジャック白井 - 記録されているただ一人の日本人義勇兵。北海道出身。アメリカで募兵に参加。青山の無名戦士の墓に銘がある。
- オリバー・ロー-第15国際旅団「エイブラハム・リンカーン大隊」(アメリカ合衆国人により編成)の指揮官で、黒人だった。
[編集] 外部リンク
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