ヒヴァ・ハン国
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ヒヴァ・ハン国は、17世紀後半から19世紀後半にかけて、アムダリア川の下流及び中流地域に栄えたテュルク系イスラム王朝。シャイバーニー朝、シビル・ハン国と同じくジョチ・ウルスのシバン家に属す王朝である。

シャイバ−ニ−朝の祖アブル・ハイル・ハンの大叔父であるアラブ・シャーから分岐した家系で、その曾孫ヤーディガールの時代にホラズム地方を領有していたらしい。1512年、シャイバーニー・ハンがメルヴで敗死したとき、ヤーディガールの孫イルバルス・ハンは、サファヴィー朝に一時奪われていたホラズム地方を奪回し、麾下のウズベク諸部族を中核として、トルクメン系遊牧民、オアシス都市のイラン系、テュルク系の定住民を支配下に置き王朝を樹立した。
チャガタイ語の歴史書、『テュルクメンの系譜』および『テュルクの系譜』の著者であるアブル・ガーズィー・ハン(在位1644-63)などがいる。
当初はウルゲンチを中心としていたが、17世紀末にこのウルゲンチ・ハン国は、アムダリア川の河床の変化と関連して、首都をウルゲンチから移転してヒヴァを本拠にしたため、ヒヴァ・ハン国と呼ばれ始めた。
17世紀末から18世紀初めにかけて、ヨムド部族を主体とするトルクメン人の一部がヒヴァ・ハン国に移住した。トルクメン人の移住の原因となったのは、アムダリア川の旧河床への決壊だった。トルクメン人は、親衛隊として勤務する代価として、ハーンから土地を受け取った。
18世紀末から、トルクメン人は、ヒヴァ・ハン国の支柱となり始めた。彼らの土地は、北はアイブギルから南はザウングズ・カラクモフまで、西はウスチュルト及びサルイカムイシュまで広がった。
1873年5月、ヒヴァ・ハン国は、ロシア帝国の保護国となった。ロシア革命後、1920年にホラズム人民ソビエト共和国が成立したためヒヴァ・ハン国は滅亡した。その後、ヒヴァ・ハン国の領域はトルクメニスタンとウズベキスタンのカラカルパク自治州に分割された。