フィリップ王戦争
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フィリップ王戦争(King Philip's War)とは1675年白人のアメリカ入植当時に白人入植者とインディアン諸部族との間で起きた戦争。フィリップ王とは白人入植者相手に反旗を翻し戦争を始めたワンパノアグ族の酋長メタコメット(メタコム)の事で、白人入植者は彼の事をそう呼んでいた。
戦争の背景にはイギリスから来たピューリタン(清教徒)、ピルグリム・ファーザーズの白人入植者達がインディアン、特にワンパノアグ族の住む土地に侵入し入植地を拡大したためそれに怒ったインディアンが起こした戦争である。しかし元々ワンパノアグ族は白人入植者達に対して友好関係を築いており、1620年酋長のマサソイトは慣れない環境による寒さや病気、飢えで苦しむ白人入植者を助け、平和と友情による条約を結んでいる。1621年の秋、感謝祭の際にもマサイットは多くの食料を持参して列席している。しかし白人の入植者が急激に増加し彼らインディアンの土地を売るように要求したり、強引なキリスト教(キリスト教に改宗した部族の者もいる)の布教や、インディアンに不利な裁判などでインディアンの白人に対する反感はあった。さらに白人と友好を築いていたマサソイト酋長が死ぬと状況が変わる。マサソイト死後、ワンパノアグ族の新酋長は息子のワムスッタ(アレキサンダー)になるが、白人側は彼らが住む土地にまで入植地を拡大して行った。そのためワムスッタは白人が父マサソイトに要求して結んだ入植の土地の譲渡と平和のための条約には矛盾があると、プリマス入植地に行き、白人に言って入植拡大を止めるよう申し出てきた。が、プリマス入植地から村に帰る途中、ワムスッタはなぜか病気(毒殺されたとも言われる)による謎の死を遂げてしまう。そして新たに24歳のワムスッタの弟メタコメットが新酋長になると、白人との関係はさらに悪化して行った。メタコメットも兄ワムスッタと同様に、白人に対してそれでも白人との友好関係を続けていくことに苦心していた。しかし誇り高いメタコメット酋長は部族の土地を侵す白人に対して、ついに戦線布告の準備を始めた。1675年6月25日キリスト教に改宗したワンパノアグ族でハーバード大学のインディアン・カレッジで学んだジョン・ササモンがプリマス入植地の総督ジョシア・ウィンスローにワンパノアグ族のメタコメット酋長が白人に対して戦争準備をしていると通報した。結局ササモンは別部族の者に殺されてしまい、メタコメット酋長率いるワンパノアグ族及びニアンティック族、ペナクック族、ノーセット族らワンパノアグ族と同盟を結んでいた部族達も参戦して、プリマス入植地を攻撃した。攻撃された入植地の白人側も武装してワンパノアグ族と敵対するモヒカン族やモホーク族などの部族を味方に付け戦争が勃発。インディアン側はニプマック族やナラガンセット族11月2日に(プリマス入植地総督のウィンスローがナラガンセット族の婦女子を大虐殺してる。)白人側はマサチューセッツ植民地とコネチカット植民地を引き込んでのニューイングランド一帯に置ける大戦争に発展した。激しい戦闘を繰り広げ、両者は双方大規模な打撃を受ける。インディアン側の指導者の1人カノンチェット酋長が1676年4月3日に逮捕及び処刑され、白人に対して反旗を翻し戦いを挑んだメタコメット酋長が3ヵ月後の8月12日に戦死し、白人側が勝利する形で戦争は終結する。戦いで600人の白人入植者と4000人以上のインディアンが犠牲となり死んだ。戦死したメタコメット酋長の遺体は白人達により八つ裂きにされ、首は槍の先に突き刺され、白人達の村に数年間飾られた。そして捕虜となったメタコメット酋長の家族を始めとするインディアン達は奴隷として西インド諸島などに売り飛ばされて行った。