フライングキッド市原
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フライングキッド市原(フライングキッドいちはら、1969年1月24日 - )は、プロレスラーである。本名:市原昭仁(いちはら あきひと)。徳島県徳島市出身。身長170cm(公称、実際は160cm強)・体重85kg。
[編集] 経歴
FMW1期生として、1990年1月17日、熊本県熊本小国ドームにて、本名の市原昭仁として森重正臣とエキシビション・マッチでデビュー。 正式なデビュー戦は、同年5月12日の尾内淳(現:ウルトラマンロビン)戦。
当時は無理矢理体を大きくしようと、無理なウエイトアップを行った為、肥満体型のアンコ型レスラーで、得意技に雷電ドロップ(ジャンピング・ヒップドロップ)を使用するなど、後の空中殺法を得意とするレスラー像とはかけ離れていた。
その後、1992年5月にメキシコへの武者修行に旅立ち、同地のプロレス団体WWAのリングを主戦場に活躍するが、このメキシコ遠征で、肉体改造に着手し、大減量の末、スマートな体型に変わり、空中殺法を得意とするようになる。
その翌年の1993年2月、リングネームを『オーニタ・ジュニア』と改め「大仁田厚の息子」と言うギミックでメキシコで活躍し、日本に帰国する(日本でも一時期、オーニタ・ジュニアのリングネームを使用していたが、大仁田厚の息子というギミックが日本では荷が重かったのか、本名の市原昭仁に戻して試合を行っている)。
その後、同じようにメキシコに武者修行し、凱旋帰国したハヤブサが次期エースとして期待されたのに比べ、覆面レスラーのレイ・パンディータとしてパンダの着ぐるみを着用し、色物レスラーとして扱われるという、本人からすれば不本意な扱いを受け、1996年4月、ターザン後藤・ミスター雁之助と共にFMWを退団。 真FMWを結成し、現在のリングネームであるフライングキッド市原に改名する(尚、FMWを離脱した本当の理由は、現在でも口を固く閉ざしている)。
以降IWAジャパンをはじめ、インディー団体を渡り歩いた後、 1997年1月、ミスター雁之助とともにFMWに復帰。真FMWとしてFMW正規軍に敵対。 一時、『フライングキッ道市原』を名乗り冬木軍プロモーションに所属したが、離脱し最終的にはFMW正規軍に落ち着く。
FMWがエンターテイメント路線になってからは、色男キャラとして荒井薫子(荒井昌一社長の姪というギミック)と草凪純との間で自身のマネージャーをかけた争いを演出するなどするが、FMWが倒産した後はWMFに活動の場を移すものの、その後離脱し、現在はフリーランスとして様々なインディー団体で活動している。
[編集] リングネーム
名乗ったことがあるリングネーム
- 市原昭仁
- ハンニャ(メキシコ遠征中)
- オーニタ・ジュニア(メキシコ遠征中)
- レイ・パンディータ
- フライングキッド市原(現在も使用中)
- フライングキッ道市原
- えべっさん
[編集] エピソード
- 中学を卒業後、高校へは進学せずにレスラーを志したが、身体の大きくなかった市原は周囲の反対を受けた。のちにこう語っている。「俺、みんなに『お前には無理だ』『やめろ』って反対されたとき、そういうことをいう大人には絶対にならないって決めたんですよ」(『メキシコホテル』大倉直著)